第3回ボードレール研究会

司会者報告 - 山田兼士(大阪芸術大学

 第3回ボードレール研究会は1999年3月9日(火)大阪大学において行われました。 &第2回から一年半以上の空白があったにもかかわらず15名ほどの参加者があり、まずは盛会だったといえるでしょう。丸瀬、吉田両氏による長時間にわたる研究発表が行われ、発表後の質疑応答も活発に交されました。~
 まず丸瀬康裕氏が「散文と詩の間――ボードレール「夕べの薄明」の三つの稿」と題して発表されました。 ・852年初出の韻文詩「夕べの薄明」を出発点とし、55年発表の同題の散文詩、さらに同じ散文詩の64年改稿版、という三種のテクストを綿密に読解し、この間の変遷過程の中にボードレール散文詩成立の鍵を見出していこう、という発表内容でした。韻文と散文による「姉妹作」の検討、という方法やテーマそのものは決して目新しいものではありませんが、「詩」から一度「非詩」へと向かったテクストが再び「詩」へと回帰してくる(もちろん当初とは異なったかたちで)プロセスを明かしていく論法はきわめてスリリングなもので、いくつかの重要な発見が得られました。特に、一度「非詩」的要素を多くしすぎた散文版「夕べの薄明」(詩というよりむしろエッセイとでも呼ぶべきもの)が64年版において抒情性、修辞性を回復する過程への論及は、散文詩成立を論じたこれまでの多くの評者が見落としがちだった散文詩の抒情的側面にあらためて照明を当てるものと考えられます。発表後、北村卓氏(大阪大学)から、散文詩「夕べの薄明」の62年稿と64年稿の相違にも注意が必要ではないか、などの質問があり、更に緻密な論証の必要とその有意義性が確認されました。また、中堀浩和氏(甲南女子大学)より、 韻文/散文の姉妹作をめぐって初期作品からの再検討の必要性が指摘され、本発表内容のより全面的な展開が要請されました。~
 次に、吉田典子氏が「ゾラと絵画――ボードレールのモデルニテとの関わりにおいて(副題:『愛の一ページ』とベルト・モリゾ)」と題して発表されました。本発表の前半部は昨秋の日本フランス語フランス文学会(大阪大学)でのシンポジウム『絵画と文学』での発表内容とほぼ重複するものでしたが、後半部は、より広範な視野から作家ゾラと印象派絵画の、とりわけベルト・モリゾとの相関を究明する、大変刺激的な内容となりました。特に、グリゼルダ・ポロックが『視線と差異』で示した絵画におけるジェンダーの視点をゾラ作品に適用して、劇場、カフェ、娼館などを描いた男性画家と決定的に異なる女性画家の視覚の限定性を「近代」芸術の根本問題と指摘する論脈は、非常に重大な示唆に富んでいたように 寰vわれます。というのも、モネやル丿ワールやドガら「男性画家」たちの視線を代表する(あるいは予言した?)テクストこそ、ボードレールの「現代生活の画家」にほかならなかった、ということだからです。吉田氏自身は、本発表の結論を明確にはされませんでしたが(更に継続される研究の一端という位置づけのためでしょう)、ゾラの場合、こうした「男性画家」の視線を重視しつつも、モリゾに代表される「女性画家」の視点をも作品に取り入れた「愛の一ページ」を書くことで、より総合的(両性具有的?)エクリチュールを実現している、というような主張を提出されているように司会者には理解されました。発表後、美術批評におけるゾラとボードレールの相違等をめぐるいくつかの論議があったことを付記しておきます。

散文と詩の間 ―ボードレール「夕べの薄明」の三つの稿 - 丸瀬康裕(関西大学非常勤)

 ボードレールにおいて散文詩とは何だったのか。詩は韻文作詩法に保証されるものではないとすれば、どのような形において成立しうるものと詩人は考えたのか。散文詩はいかにはじまりどこへ行こうとするのか。ボードレールの実作上の試行錯誤を検討することによってこうした問題を考えてみたい。散文詩誕生の現場にできるだけ近づくという意味で1855年の『フォンテーヌブロー』の誌上に立つことにしよう。~
 この諸家撰文集に散文詩の原形ともいえる2篇の作品、「夕べの薄明」と「孤独」が、1852年にすでに発表済みの2篇の「薄明」と題される韻文詩(ひとつは「夕」、ひとつは「朝」と小さな標題が付く)とともに掲載される。このうち、散文「夕べの薄明」と韻文詩「夕」(「夕べの薄明」)は、散文詩の試みの時期にみられる同一の主題による散文、韻文の書き分けのケースのひとつにあたる。~
 畳韻法や半階音を効果的に使用し、黄昏の持つ、とりわけ不吉で忌まわしい側面をピトレスクに歌う韻文詩「夕べの薄明」と比較して、 ・U文「夕べの薄明」は、夕暮れが人間にもたらす神秘的な精神作用を、修辞を排し、具体的に考察、論理的に分析することに主眼が置かれている。そして重要と思われることは、多分に私的な語り口をもつ「私」の出現である。韻文詩における現在形の使用に対し、ここで複合過去が用いられることによって、黄昏が、「私」の経験的な視野のなかにとりこまれ、そのことによって、作品は、象徴的空間ではなく、現実的地平を開こうとする。粉飾を削ぎ落とした、ほぼ均等量の長さを持つ4つのストロフに分割され、その視覚的な布置において詩的作品としての効果を主張しながらも、この散文「夕べの薄明」は、むしろひとつのエッセイとして読まれようとしているかにみえる。たしかに、同時掲載されたボードレール自身による編集者宛の手紙には、誌上には計4篇の作品が掲載されているにもかかわらず、「2篇の詩をお送りします」という文言が見られ、散文作品の方は、詩人によっても「詩」であるとはみなされていない、と考えることができる。~
 この散文「夕べの薄明」は、その後、1862年に続いて1864年に雑誌発表されるが、その際、これまで一対を形成していた詩編「孤独」から切り離され、9つ ]のストロフにまで膨れ上がる大幅な改稿がなされる(その後わずかに手を加えられて『パリの憂鬱』所収の最終稿にいたる)。分析的、論理的であった簡潔な55年稿に比べ、修辞的に膨らみを加え、叙法は情動的に流れ、韻文詩「夕べの薄明」の要素をかなり回復している。そして、55年稿における「私」の経験的地平から、再び直説法現在を伴った、象徴的空間への移行が目指されている。エッセイのようでもあった55年稿から、64年稿は明らかに詩的作品が意図されている、といえる。~
 韻文詩から散文55年稿へ、そして散文64年稿へ。この執筆過程を辿ることで、ボードレールが、どのようにして「詩」から「詩」でないものへ移行し、またどのようにして「詩」に近づこうとしているのかを伺うことができる。~
 韻文的要素を回復することで「詩」に近づこうとすることは、あるいはボードレールにおける詩的言語の発展ということから言えば後退であるといえるかもしれない。しかし韻文的要素を含ませながら、語り口のより複雑に変転する64 _N稿は、むしろ『パリの憂鬱』序文の一節に叶う達成をみていると考えることもできる。また、55年稿において、「私」を出現させ、また挿話というかたちで「友人」を導き入れたことは、テクスト内部の主体の在りようの揺らぎと複数化として考えることができる。この「揺らぎと複数化」は64年稿のテクストの地層をも支配している。この後、ボードレール散文詩に、しばしば短編小説への志向を見せる三人称が頻出することもこのことと無縁ではないはずである。

ゾラと絵画 ―ボードレールのモデルニテとの関わりにおいて(副題:『愛の一ページ』とベルト・モリゾ) - 吉田典子(神戸大学

 ゾラは1860年代半ばから80年代はじめにかけて、美術批評家として精力的に活動し、マネや印象派など、現代的な主題(les sujets modernes)を新しい技法で描く画家たちを擁護したことで知られている。ゾラにおける文学と絵画の問題を考える上で重要な位置を占めるのは、『ルゴン=マカール叢書』第8 ゚ェの『愛の一ページ』(1878)である。この小説は1877年4月の第3回印象派展の前後に構想されたが、これはグループとしての印象派がもっとも活発であった時期であり、またゾラと印象派の関係がもっとも良好であった時期でもある。というのも1879-80年になると、ゾラは印象派に対して、テクニック不足と安易な制作態度を非難するようになり、両者の間には亀裂が目立ちはじめるからである。本発表は『愛の一ページ』と印象派の絵画、とりわけ女性画家ベルト・モリゾの作品世界との関連を指摘するものであり、さらにボードレールの『現代生活の画家』を手がかりに、芸術におけるモデルニテと女性との関係を考察しようとするものである。~
 『愛の一ページ』は、パリ市内を見下ろすパッシーの高台にあるアパルトマンで、一人娘のジャンヌと引きこもった暮らしをしているまだ若い未亡人エレーヌが、隣人の医師と恋におちる物語である。しかし神経過敏で早熟な娘ジャンヌは母親の恋に強く嫉妬して、結局そのために死んでしまい、母親は平凡な再婚をすることになる。表面的には美しく平穏な日常の下に、生理学的ともいうべき激しい内面のドラマを秘めた作品である。~
 裕福な セブルジョワ階級の室内や庭を主要な舞台とするこの小説には、モネやルノワールなど印象派の絵画を思わせる描写が多い。具体的源泉としてはルノワールの『ぶらんこ』やモネの『ラ・ジャポネーズ』などが指摘されているが、他にも陽光あふれる庭を舞台に現代風俗を描いたモネの一連の絵画や、ホイッスラー、ティソなどの影響が指摘できる。しかしこの小説が絵画と競合するのは、何といっても5回にわたって描かれるパリのパノラマ光景によってである。それは印象派の「連作」のように季節の変化や時刻の変化をともなっていて、初春の朝、初夏の雨上がりの夕方、9月の夜、10月の嵐の午後、雪景色と移り変わっていく。ただし印象派絵画と異なるのは、ゾラの場合「連作」が小説全体に堅固な構造を与えていること、それぞれのタブローがそれを眺めるエレーヌやジャンヌの心理を反映するものとなっていて、物語の進行と密接に結びついていることである。~
 このパリのパノラマと同じ視点を持つ絵画に、マネの『1867年の万国博覧会』(1867)とベルト・モリゾの『トロカデロの高台から見たパリ』(1872)がある。モリゾは印象派の中心メンバ ネーのひとりで、身近な人々をモデルにして室内や戸外にいる女性や子供を美しい色彩と繊細なタッチで描いた作品が多い。彼女は高級官僚を父親に持つ裕福なブルジョワ階級の出身で、長年パッシー地区の住人であり、とりわけ64-73年に住んでいたフランクラン通りのアパルトマンからはパリ市内が展望できた。モリゾの『トロカデロの高台から見たパリ』では、手前にきちんとした身なりの二人の婦人とひとりの少女(モデルは二人の姉と姪)がいて、彼女たちの空間とパリの遠景とは柵が欄干のようなものではっきりと区切られている。美術批評家のグリゼルダ・ポロック(『視線と差異』新水社、1998)は、ベルト・モリゾに特徴的なこの空間構成は、女性と子供が画家自身も属している手前の空間に閉じこめられ、外の世界とは隔てられていることを示していると考えた。~
 ゾラは『愛の一ページ』を構想する上で、ベルト・モリゾの世界から多くを借りてきているのではないかと思われる。なかでも私的な領域に囲い込まれた女たちと子供たち、その中での母親と娘の密着した関係、思春期の少女の主題など…。ゾラは77年の第3回印象派展評でモリゾの『プシュ ッケ』と『化粧する若い女性』を「二つの本物の真珠」と讃えたが、とりわけ姿見(psych・を前にした少女を描いた前者は、古代ローマのクピドとプシュケの物語を想起させるものである。クピドに恋する人間の少女プシュケの主題は、伝統的に、少女の好奇心や性の目覚めの瞬間をあらわすものとされてきた。姿見の前の少女は自身の内部をのぞき込んでいるように思えるが、『愛の一ページ』においてパリのパノラマを映し出す窓も、エレーヌやジャンヌにとって一種の鏡の役割を果たしているのではないだろうか。~
 ゾラは丸屋根や尖塔の立ち並ぶパリの光景に明らかに性的な意味合いを与えている。それは貞潔な未亡人エレーヌが自身に閉ざしている世界であり、少女ジャンヌにとっては知ることを禁じられた大人の世界である。パリという外部世界は一種の欲動の空間、エロティックな空間として機能しているのである。~
 ところで前述のポロックは「女性性の空間とモダニティ」と題された章のなかで、芸術における「モダニズム(モデルニテ)」の男性中心的性格を指摘している。マネやドガのような男性画家にとって、モデルニテ ・ヘ都市の雑踏のなかで体験されるものであり、その都市とは金銭と商品の交換が支配するスペクタクルの空間であった。彼らは劇場やカフェ、キャバレー、娼館といった場所を好んで描いたが、このような都市の光景はある特定の階級の男性の視線にだけ開かれているものであり、たとえばモリゾのような保守的な階層の女性画家には立ち入ることのできない空間であった。このような男性芸術家の視線をみごとに表したテクストがボードレールの『現代生活の画家』である。ここで主張されている理想的な芸術家像は、熱烈に人混みを愛し、匿名であり、見られることなく見る自由を享受している窃視者的観察者であるが、この近代都市空間の「散策者」のモデルは根本的に男性でしかあり得ず、女性は彼の視線の対象でしかない。ポロックボードレールのテクストに基づいて、劇場の特別席から娼館にいたるモデルニテの画家の領域とプライヴ 箞Fートな女性性の領域を区分し、男性画家がおおむね二つの領域を自由に行き来しているのに対し、女性画家の領域は非常に限られていることを示した。~
 ゾラの場合、マネやドガの作品と共通するモティーフを多くもつ『居酒屋』(第7巻)やとりわけ『ナナ』(第9巻)は、いわゆるモデルニテの画家の領域──そこでは女のセクシュアリティが強調され、商品として取り引きされる──を扱う作品だが、両作品の間に描かれた『愛の一ページ』は、ブルジョワ階級女性の閉ざされた空間──そこでは女のセクシュアリティは家族的イデオロギーのもとに抑圧される──に着目し、そこに起こる肉体の悲劇を描いたものである。『愛の一ページ』は有名な『居酒屋』と『ナナ』の間で注目されることの少ない作品だが、対極的な母と娘の関係を描いたこれら3作品は、『ルゴン=マカール叢書』のなかで一種の3部作を形作るのではないだろうか。以上の考察は、ゾラと絵画との関連を考えるなかで生まれてきたものであるが、今後「近代」とはいかなる時代であるかを文学や絵画を通して考える上で、階級やジェンダーの視点を導入することが有益であると思われた。