第2回ボードレール研究会

司会者報告 - 丸瀬康裕(関西大学非常勤)

 第2回ボードレール研究会は9月20日(土)に大阪市立大学にて行われました。参加者が少ないので集まりを待ちながら予定時間を1時間近く遅らせて始めました。それでも発表者、司会者を含めて6名という少人数の研究会となりました。当日は他所で講演会、研究会などがあり、それらと重複したのが災いしたと考え nれ、日程に一考が必要であったかもしれません。当日の発表内容が大変に充実していただけに、多くの方に参加していただきたかったと残念に思いました。~
 まず秋吉孝浩氏が「ボードレールにおける新古典主義絵画の位置――ダヴィッドを中心に」と題して発表されました。1846年の絵画論『ミュゼ・クラシック』で取り上げられたダヴィッドの「マラー」のボードレールの評価をめぐって考察されました。この絵についての「極端な早さ」と「デッサンの美しさ」の称揚がダヴィッドをドラクロワへ結びつける存在であることを示すとともに、ボードレールの「現代生活の英雄性」の主張ともつながっていること、またこの絵画作品における「貧困」を意図的に退けるボードレールの視点はその「政治的な装置」への批判をも示していると分析されました。ボードレールの絵画論をめぐる論考としてダヴィッドが中心に据えられることは少なく、そういう意味で貴重な興味深い考察であったと思います。ただ論旨の展開にもうすこしメリハリをつけて、主張すべきところ アiたとえばボードレールダヴィッド評価が彼のモデルニテの問題とどのようなかたちで意味をもちうるのか)強く前に打ち出して、他の諸作品などとも関連づけるというような欲張りなところもあってもよかったかと思いました。~
 次に釣馨氏が「『人工天国』と速度」と題して発表されました。ボードレールにおけるドラッグ体験から「速度」を抽出して、それが生の多元的な獲得という「瞬間の深化」の問題と深く関わること、同時に高機能、高速度な詩的想像力を発動させる装置でもあり、それはワグナーの「精神的な空間と深さ」を感得する音楽体験を準備してもいることを述べられた。また、その体験の本質にある「速度」と「多数性」は、ボードレール「群衆」との関わりにおける主体と客体のあり方や、さらにモデルニテの問題において重視されるドラクロワの画面にも確認できることを指摘され、ボードレールにおける想像力の根底的な問題として考察されました。20世紀芸術の方向性まで射程をのばす視点の提示はボードレール世界のいまなお先鋭でありうることの可能性を示された示唆に富んだ報告だったと思います。1時 pヤ以上に及ぶ発表は、分析とそこから得た視点の応用から成っていましたが、30分程度の発表にするためにはどこに論点を置くかという整理が残された作業でしょう。~
 今後、研究会の内容、開催回数および時期など、若干の検討の余地があるかという印象です。ボードレールとその周辺についての研究の充実とさらなる発展のために、研究会がどのようなかたちであることが望ましいか、ぜひ皆様方からのご意見をお寄せいただきたいと思います。

ボードレールにおける新古典主義絵画の位置 ―ダヴィッドを中心に― - 秋吉孝浩(大阪市立大学非常勤)

 1846年という、最初に「現代生活の英雄性」の主張がなされる重要な二つのサロン評の間に発表された『ボンヌ=ヌーヴェル百貨店での古典派美術展』(以下『古典派美術展』と略す)は、ひとつのダヴィッド論といってもよいものであるが、この展覧会評において他のダヴィッドの作品と比べてその長さが異常にさえ感じられるほどページを割いて論じられているのが「マラー」である。ここには、絵画作品を「ポエム」として捉えること、また「自然のごとく残酷」「理想に固有の芳香をことごとくふくんでいる」など、ボードレール的な表現をいくつもみてとることができる。しかし、「歴史的で現実的」な細部から後半の「精神主義」への論の移行の要となっている「極端な速さをもって描かれていること」「デッサンの美しさ」という表現は、当時においては唐突な論理の飛躍を感じさせずにはおかないほどのものであった。では論理の飛躍も辞さず、ここ 揩ナこうした表現が用いられる必要がどこにあったのか?~
 ドレクリューズは、同じ展覧会を評する中で、この「マラー」について、「同時代の歴史に高尚な様式の絵画を結びつけるという、ダヴィッド以前には誰も成し遂げることのできなかった組み合わせのために、画家が払った努力が示されている」と述べている。ダヴィッドの弟子として常にこの画家を擁護してきたドレクリューズにしてみれば、マラーを描いたこの作品を同時代を描いた新たな歴史画として評価することはある程度必要なことであったはずであり、これはボードレールの「現代生活の英雄性」にも共通する主張である。しかし、両者の決定的な違いは、同時代の歴史を描くという、当時はまだ「厳密な意味での歴史画」よりもおそらく「風俗画」というひとつランクの低いジャンルに分類されかねない作品を擁護するためにドレクリューズが「高尚な様式(le haut style)」という時代の価値に寄り添っている点である。十九世紀にはstyleという語は、定冠詞を伴って「巨匠たちが時代から時代へと伝えてきてくれた伝統の総体を表わし、美に立ち向 クかうあらゆる古典的な流儀を要約して、美そのものを意味する。それは理想である」という意味を容易にもつことができ(邦訳『ボードレール全集』の阿部良雄氏の註による)、そのためドレクリューズのこの言説は当時かなりの説得力をもって受け入れられたであろう。だが、ボードレールにとってみれば、この『古典派美術展』の冒頭において、「あまりにも器用な」「上手に描く術を知りすぎている」、いわば過去の巨匠の様式を模倣することのみを継承した現代の画家たちを批判した以上、ドレクリューズのような視点から「マラー」を評価することはできない。ボードレールはそれ故、「極端な速さ」「デッサンの美しさ」という唐突な表現によってダヴィッドのこの作品を評価することになる。これは、『四六年のサロン』のドラクロワを論じる部分にみられる「一枚のタブローは何よりもまず芸術家の内面の思考を再現する」ものでなくてはならず、そのためには「速やかさをもって遂行することが必要だ」という主張につながるものであり、ドラクロワを「革命期の流派に結びつける摩訶不思議な血縁関係」をこの展覧会評の末尾近くで示す ルというボードレールの主張へとつながるものでもあった。~
 また、ルノルマンによって書かれた同じ展覧会評と比較することで、ボードレールのこの展覧会評での主張の別の面を明らかにすることができる。ルノルマンは、この絵のもつ政治的な面を主に論じ、「ダヴィッドはどのような手法によってマラーを民衆の眼に称賛しようとしたのか? 貧困さという面においてである」として、「これほど忌まわしいフィクションを飾り立てるために、芸術の手法がこれほど偉大に、真に迫って用いられた試しはない」と述べる。「ドラマティックな英雄の栄光」をイメージ化するためにダヴィッドが行ったであろうある種の理想化が成功しているとする点においてはボードレールと意見を同じくしながらも、ここで強調されているのは、それが内容的なものであるにせよ、「貧困さ」である。実際ルノルマンの細部についての描写をみるならば、「鉛の筆立て」「継のあたったシーツ」などその描写が意図しているものは、まさに「民衆の眼でマラーを称賛する」ための「貧困さ」、現代の美術史家の表現を借りるならば「現実と意味の交差」によって機能する「プロレタリアの代替物」である。 ・れに対し、ボードレールが行う細部の描写においては「最後のペン」「緑色の机」「血に染まった大きな包丁」など、そうした「貧困さ」を意味するような表現は避けられており、この絵を知るものにとっては特に「継のあたったシーツ」に関する描写の不在が印象的である。「神聖な〈死〉がその翼の端でかくも速やかに消し去ったあの醜さとはいったい何だったのか? マラーはこれより先アポローンに挑むことすらできる」という文章にみられるように、ボードレールにとって「アポローンに挑むことすらできる」「現代生活の英雄性」がこの作品に現れている以上、ここで唐突にいわれる「あの醜さ」とは、こうした細部の「貧困さ」に眼を奪われることへの、ひいてはこの「貧困さ」によって民衆がマラーを神格化するという政治的な装置としてこの作品が機能するというイマージュの「貧困さ」への批判とさえ思われる。それがたとえモデルを理想化した「古代ローマ風の貧困さ」であったとしても、民衆の情感に寄り添うような意味をもつ「貧困さ」は、後のミレーの作品への批判にみられるように、ボードレールの忌み嫌うものであったからである。また、この「マラー」という作品にはその内容ま ナ読み取れる二つの手紙が描かれているにもかかわらず、それぞれ別の一方しか取り上げていないのはこうした論の違いによる。「五人の子供をもつ母であり、祖国を守るために戦って死んだある市民の寡婦にあてて、アシニャ紙幣」というマラーの手紙を挙げるルノルマンには、ダヴィッドがマラーの像を民衆の称賛を得るためのものとして作り上げた点が重要であった。しかし、暗殺者シャルロット・コルデの「同志よ、私がまことに不幸な女だというだけで、あなたの恩恵を受ける十分な権利があります」という「不実な手紙」を挙げるボードレールにとっては、コルデの手紙の「不実」さ以上に、マラーの手紙の存在をルノルマンのように民衆の称賛を得るための道具とする視点こそがまさに「不実」なのである。~
 「マラー」という作品にそうした読みを許す危うさがあったことは確かである。しかし、それを許さないような作品の力もあったからこそ、ボードレールはこの作品の細部がことごとく「歴史的で現実的」でありながらも「奇妙な離れ業によって、それは何一つ卑俗なるものも下劣なるものをももたない」と述べているのである。ただし、この点に関しては詳しく論は展開されてはいない。唯一「神 盗ケな〈死〉がその翼の端でかくも速やかに消し去ったあの醜さ」というところにこの「奇妙な離れ業」がどのような意味をもつものであったかが垣間みられる。というのも「現実的」とはボードレールにとってアレゴリーのことだからである。~
 以上のように、ボードレールにとって「マラー」を論じることは、ダヴィッドという画家の流派的な政治化との戦い(ドラクロワとのつながりにおいてダヴィッドを論じること)、そしてイマージュの政治化との戦い(イマージュが何らかの意味をもって民衆の情感に寄り添うことへの批判、あるいはその打ち消し)だということができる。ダヴィッドという画家はボードレールにとって、そうしたさまざまな問題を提起するものであった。イマージュに取り付かれた詩人であり、また絶えざる弁証法の批評家としてのボードレールを理解するためには、イマージュのもつ危険性を体現しているダヴィッドのような画家の作品を取り上げ、そして時代の中で詩人がどのようにそれを論じる必要があったのかをこのようにみていくことにも意味があるのではないだろうか。

『人工天国』と速度 - 釣 馨(神戸大学非常勤)

 ドラッグによって体験される世界は次の相反する二つの様態の結び付きによって平常の時間と空間の釣り合いが乱されている。~
 ドラッグの幻覚作用によってイメージが数を増やすと、イメージは同時に時間を増やし、時間の流れに加速度を加え、その結果、人は驚くべき速度で生きているように、短い時間の中で数多くの生涯を生きているように錯覚する。つまり、一定の時間内で、認識されるイメージの数が増殖し、それらの情報の処理速度が相対的に高まるという関係である。一方では、この間に流れた時間を認識するたびに、時間が伸びて、その限界を広げ、それによって時間の流れがゆるやかになったように思える。この深みの中で、流れ去った多くのものが巨大な空間の中に配列されているように見える。つまり、処理速度の加速によって多くの情報を処理した時間は、現実に流れた時間よりもはるかに長く、あたかも永遠のように感じられるのである。~
 このようにドラッグ体験の本質はイメージの多数性と速度の変化にあり、この関係は、生涯全体の走馬灯が一瞬のう 、ちに現前する「記憶のパランプセスト」の挿話によって象徴的に表現されている。ボードレールはドラッグヘの志向性を「無限への志向性」と言い換えているが、これは同時に、有限な存在がいかに無限をはらみ得るのか、生物的な個体としての条件をいかに乗り越え、多元的な生を獲得するのかを問うことである。この問いに解決を与えるのが速度であり、速度のみが一と多の矛盾を媒介し、無限を一瞬にして体験し尽くそうという野望を可能にするのである。~
 ボードレールは1851年から1860年にかけて想像力の問題を扱った論文を集中的に執筆しており、時期的に見てもその関心の根底にはドラッグ体験があると考えられる。しかし、一口に想像力と言っても、ボードレールの場合、二つの異なったベクトルを持つ想像力が同時に扱われており、これを区別しておく必要があるだろう。例えば、「万物照応」においては、まず五感の照応関係が図表化され、さらにその全体が超越的な世界と対応関係を結ぶ。またワーグナー論においては、『タンホイザー』を肉体と精神、天国と地獄、神とサタンの闘争として描きだし、その二 ┻的世界は神の勝利によって一挙に克服される。これはひとつの体験を全体化して、統一された意味を与えたり、ひとつの整然とした図式として提示するやり方である。ドラッグ体験を事後報告的に告白することや、その症状に応じて段階的に区分することも、この想像力と同じベクトルを持っている。それは体験そのものを描出するというよりは、事後的に物語性や論理的な一貫性を与えようとしているに過ぎない。これが別の世界から帰って来た後の「みやげ話」でしかない以上、夢や神秘体験の告白と何ら変わりがなく、新しいものは何も見出せないのである。ドラッグ体験は、その全体を整合性のある構図や図式的な展開として眺められるような静的なものではない。その本質的な瞬間に迫ろうとするとき、知覚が絶えず運動の中にあり、目くるめく激しい幻覚が現れる第二段階が重要になってくる。この段階で起こる重要なことは、異なった感覚や観念の間の、主体と客体の間の置換作用が促進し、イメージが加速度的に多数化することである。この幻覚の瞬間的な展開は、他の経験では得 €轤黷ネいドラッグ特有のものである。このレベルにおいては体験を整理し、体系化して説明することは不可能であり、知覚の運動と知覚されたものの力学関係を辛うじて示し得るにすぎない。~
 ドラッグ体験はボードレールの群衆論にも反映されている。散文詩「群衆」には、群衆の楽しみとは「思うままに白分自身であり、また他者でありうる」とか「好きなときに個々の人物の中に入りこむ」と書かれている。この散文詩の前半部では詩人の自由の意志が尊重され、群衆は「仮装と仮面」のための潜在的な人格の宝庫として提示される。しかし、後半部で微妙な差異が生じている。そこでは「普遍的な融合」や「その時々の状況が提供する」というふうに自由意志の幅が狭まっている。その先では「売春」という言葉が用いられ、意志に関係なく不特定多数との交渉が要求されている。前半部では詩人には相手の顔や客貌がきちんと認識されており、それを自分の嗜好に合わせて選択する余裕があるが、後半部では相手のあまりの多さに選択の余地がなくなっている。群衆に対して能動性を失 sい、受動的にならざるを得ない状況を示している。それと同時に、詩人の関心は相手の特質を時間をかけて認識することから、ひっきりなしに現れる相手を選び続けるという行為の反復と迅速さに移っている。つまり、そこでは群衆のはらむ人格の多様性は間題でなくなり、群衆の多数性と速度に焦点が移っているのである。「飽きることなく非我をもとめる」詩人の自我は「現代生活の画家」で「ひと動きごとに、複雑な人生を、人生のあらゆる要素の形づくる動的な魅力を再現するような」「意識をそなえたカレイドスコープ」に比されているが、この表現にも主体と客体が結び付いた知覚と、多数のイメージの加速度的増殖が読み取れる。これはまた『人工天国』における「人間の顔の暴虐」のエピソードとも重なり合う。~
 同じことが音楽論についても言える。ボードレールワーグナーの音楽に「阿片の生み出すめくるめくばかりの想念の数々」や「想像力の脈拍を加速する興奮剤」のような効果を見出したと述べている。ここで言われているのはまさに速度がもたらす w恍惚であり、ワーグナーの音楽はドラッグ体験を通して再発見されたと言ってよい。ドラッグ体験がなければ、ワーグナー論はワーグナー本人やリストの引用で織られた、ありきたりな理念的音楽論に終始していたと思われる。~
 ボードレールはドラッグヘの耽溺や、幻覚のイメージのとりとめない再生産という陥穽に陥ることはなかった。それはボードレールのドラッグ体験は何よりもその根本にある新しい力学の発見にあったからである。さらに言うならば、ドラッグによって想像力についての考え方が根底から変わったのである。そしてボードレールはこの想像力を通して、新しい音楽を、群衆という新しい現象を発見したと言えるだろう。またボードレールはドラッグを「一種の思考機械」あるいは「一個の多産な器具」と呼ぴ、人間の想像力を越えた作用をもたらすテクノロジーと考えている。ボードレールは一貫してドラッグに対する詩人の能力の優位を主張してはいるが、そこには特権的な能力を脅かされるのではないかという危機意識も同時に読み取れるのである。