第1回ボードレール研究会

司会者報告 - 吉田典子(神戸大学

 第1回ボードレール研究会は、7月26日(土曜日)午後1時過ぎより、予定通り開催されました。当日は台風9号が接近し、朝早くから大阪府兵庫県京都府等にも暴風警報が発令されて、集まりが心配されましたが、出席予定の返事をいただいた20名のうち、17名がほぼ定刻に集まって、無事に研究会を発足することができました。会場は、小西嘉幸氏のご好意により、大阪駅前第3ビルにある大阪市立大学文化交流センターの大セミナー室をお借りすることができました。16階の角に位置して市内を一望できる眺めのよい部屋で、外の嵐は嘘のような静けさの中、最初に発起人代表の山田兼士氏より、研究会発足のあいさつがあり、その後、熱心な発表と質疑応答が行われました。その内容をここに簡単にご報告申し上げます。~
 最初の発表は、北村卓氏による「荷風『珊瑚集』におけるボードレールの位置」でした。北村氏は、一般に翻訳詩編群としか見なされていない『珊瑚集』が、初版本においては序文や散文作品群、口絵、広告、装丁といった種々のパラテクストに取り巻かれた一個の「書物」であったこと、またそれらパラテクストととりわけ序文に示唆されている荷風自身の他の作品との相互テクスト性によって、必然的にひとつのコンテクスト――つまり海外の貴重な芸術や思想=「珊瑚」と、それを統制・弾圧しようとする「国家」および迫害される「芸術家」という構造――が導かれることを示し、そうしたコンテクストの中でボ [ドレールの詩編が訳詩群の冒頭に置かれた理由や、7編の選択と配列の意味を解きあかそうとするものでした。詳細なハンドアウトと『珊瑚集』初版本の関連部分のコピー、および荷風の年譜が資料として配布され、きわめて明快で説得的な発表であったと思います。また質疑応答の時間中には、朱赤の背表紙に金と赤紅の表紙、そして天金という美しい装丁の初版本(復刻版)が回覧され、「書物」としての初版本の価値がよく理解された発表でした。~
 質疑応答としてはまず、山田兼士氏より、北村氏は『珊瑚集』の中のボードレール詩編群を「ボードレール憂愁詩編群」と呼んでいるが、実際には『悪の華』の「恋愛詩編群」および「芸術詩編群」に含まれているものも3編あるので、命名としては紛らわしいのではないかという指摘があり、また荷風を取り巻く日本の文学状況全体(大正モダニズムの時代)の中で彼の訳業をとらえる必要があ ニ驍ニいう意見がありました。また中堀浩和氏からも、日本におけるボードレール受容の問題についての意見があり、また当時の日本の政治状況とボードレールの政治性の関連についての指摘がありました。北村氏からは、日本におけるボードレール受容の問題についてはまだまだ調査すべき点があるが、やはり荷風の訳業は何といっても傑出しているとのことでした。また小西嘉幸氏からは、訳詩群末尾に据えられたА.サマンの詩の題名《Luxure》を荷風が「奢侈」としたのはやはり誤訳ではないかとの指摘があり、北村氏からは、荷風はおそらく、「色欲」の意味も含めた上で、あえて「奢侈」を選んだのではないかという返答がありました。~
 2番目の発表は、山田兼士氏による「ボードレールとデュポン――2つの『薄明』を中心に」と題されたものです。山田氏はボードレールによる2つのデュポン論(1851年と1861年)と3つの「夕べの薄明」(韻文1851、散文初期形1855、散文後期形1862)のクロノロジックな重なりに注目し、そこに「魂の熱狂のディスクール」から「精神の覚醒のディスクール」への変化を認め、また散文後期形の「夕べの薄明」が韻文形 散文初期形、および韻文詩「瞑想」のコラージュであることを示す一方で、この変化のプロセスの中で「夜」が詩人にとって脅威をもたらすものから慰安をもたらすものへと変遷していること、その結節点を示すのが、『悪の華』第2版(1861)における「パリ情景」の詩編の配列であり、そこでは新作を中心とする「昼のパリ」のサイクルと旧作中心の「夜のパリ」のサイクル(後者は「夕べの薄明」と「朝の薄明」に挟まれている)が形作られていること等々を指摘されました。実に盛りだくさんの内容で、とても簡単には要約しきれませんが、今後の研究の方向性についても言及され、きわめて刺激的で豊かな内容の発表であったと思います。~
 質疑応答としては、北村卓氏より、2つのデュポン論の文体の相違には、2月革命の熱狂とそこからの覚醒も関連しているのではないかという質問があり、山田氏からは、1851年の段階ではボードレールはすでに脱政治化していたが、ナポレオン3世の時代の政治状況には十分留意する必要があるとの返答がありました。また三好美千代氏より、フランス革命以降、「インターナショナル」にいたる労働歌の系譜について質問があり、中堀浩和氏からは、『悪の華』第2版における「パリ情景」については、さらに研究の余地があるとの指摘がありました。次いで丸瀬康裕氏より、ボードレールが2つの韻文詩「薄明」と散文初期形の「夕べの薄明」を同時掲載した詞華集「フォンテーヌブロー」(1855)には、ピエール・デュポンも作品を寄せているが、そこに何らかの関連性はないのかという質問があり、山田氏からは重要な指摘なので今後詳しく検討してみるとの返答がありました。北村氏からはまた、1857年に発表された6編の散文詩の総題「夜の詩」Poèmes nocturnesを「パリ情景」中の「夜のサイクル」と関連づけた山田氏の見解に対し、「夜の詩」6編は『悪の華』初版の構造をかなり忠実に反映しているので、その見解にはやや無理があるのではないかという意見がありました。~
 2つの発表とも実に周到に準備された熱心な発表であり、強いて難を言えば、予定時間をかなり超過して、北村氏は約1時間、山田氏は約1時間半にわたって、話されたことでしょう。質疑応答はそれぞれ20ー30分程度でした。これは司会者の責任でもありますが、一言弁解さ 蘄ケていただくならば、こうした研究会では、学会発表のように堅苦しく考える必要もなく、自由に研究成果を報告できるという雰囲気があっていいのではないでしょうか。しかも2つの発表とも冗長なところは皆無で、聞いていて決して長くは感じられませんでした。ただそのために、研究発表後に予定されていた「懇談会」で、今後の研究会のあり方や方針について、自由に意見を述べていただく時間がとれなかったことを、司会者としては深くお詫びいたします。研究会終了後のビールを飲みながらの「懇親会」(17名中16名が参加)が、ある程度その役割を果たしてくれたことと思います。当日ご都合で研究会にお越し願えなかった皆様からも、またご自由に意見を頂戴できれば幸いです。

荷風『珊瑚集』におけるボードレールの位置 - 北村卓(大阪大学

 永井荷風の『珊瑚集』といえば、代表的な翻訳詩集、さらには荷風の青春の叙情的な記念碑として現在では理解されている。しかし、こうした受容の方向性を決定づけたのは、訳詩だけを収めた大正8年の第二版以降である。大正2年4月に上梓された初版本には、38篇の訳詩群から構成される本来のテクストを挟む形で、前には、口絵・序文・目次、後ろには、散文作品・口絵・広告といった、いわゆるパラテクスト群が配置されていたのである。~
 まず序文「珊瑚集序」において、珊瑚とは、鎖国時代のご禁制の輸入品であり、それがとりわけ日露戦争後、弾圧・統制の対象と化した海外の芸術や 竡v想に他ならないことが明らかにされる。加えてこの序文には「癸丑春三月柳亭種彦が事を小説に書ける日」という一文が添えられている。この小説とは、『戯作者の死』を指し、奢侈厳禁を掲げた天保の改革期における『偐紫田舎源氏』の作者柳亭種彦の筆禍およびその死を題材としている。また作中にも、時代に受け容れられない芸術家を指し示す珊瑚への言及があり、明らかに「珊瑚集序」と響き合っている。そして最終行では「於東京大久保」と、執筆の場所が示されている。荷風において、市ヶ谷監獄署とそのすぐ裏手にあった大久保の実家との結びつきがきわめて強固であったことは、明治42年発表の短編「監獄署の裏」を読めば瞭然である。大久保という地名が「監獄署の裏」との相互テクスト性を通して、柳亭種彦が事・軍事政府・鎖国などと同一の範列体系を形作っているのである。さらにこの序自体が、作者荷風の死を告げる報せのように、黒い罫線の枠で縁取られている。~
 この後「目次」とボードレールの自画像の写真が続き、次に訳詩群がボードレールから始まる。言うまでもなく、『悪の華』初版は当局によって摘発された詩集である。ここにおいて『珊瑚集』は、『田舎 荵氏』と『悪の華』が授かった廃嫡の書という栄光を受け継ぐことになる。まず冒頭の「死のよろこび」Le Mort joyeuxによって「死」の主題が全面に押し出され、次の「憂悶」Spleenでは、「牢獄/幽閉/死」のサークルが完成する。続く「暗黒」Obsessionでも、詩人は「喪の室」で瀕死の状態に置かれる。さらに「仇敵」L'Ennemiでは、何も残せぬまま年老いて死を迎える詩人の苦悩が表出されている。ここで「芸術創造」という主題が新たに加わり、先の「珊瑚集序」の主題がすべて出そろう。すなわち、現世という「牢獄」の中に「幽閉」され「死」を前にしながら、社会と格闘しつつ「芸術創造」を実践しようとする芸術家の宿命、という一つのコンテクストが、序文というパラテクストの存在によって浮き彫りされてくるのである。そして次に来る「秋の歌」Chant d'Automneと「腐肉」Une Charogneもまた同様の観点から読み取ることができる。そして最後「月の悲しみ」Tristesse de la Luneは、より和らげられた憂鬱を詩い、後に続く叙情的な詩篇群との重要な橋渡しとなる。ここで「月」が下界に落とす「涙の玉」を、詩人は「太陽の眼」を忍んで胸に隠す。このとき太陽は社会の秩序 臏、月は凶器や芸術を体現している。こうして月の涙=訳詩群は、序文中の珊瑚と繋がる。このコンテクストは、訳詩集最後の一篇、サマンの「奢侈」Luxureにおいて、一段と強化される。つまり奢侈はご禁制の珊瑚と通底し、そこから『田舎源氏』さらには『悪の華』へと遡及するのである。~
 訳詩群直後の散文作品「モーパツサンの扁舟紀行」では、詩人達の詩句を思い浮かべながら、ヨットでイタリア方面に向かうモーパッサンの姿が描かれているが、これは序文の「伊太利亜珊瑚珠」を積んだ船と呼応しており、また旅立つ船のイメージは、次の「ピエール・ロチイと日本風景」において増幅される。続く三つの短編の翻訳:「窓の花」「二人処女」「水かがみ」のうち、「二人処女」の欄外には、検閲を意識した訳者の言葉が添えられ、後の二篇はいずれも死のイメージが濃厚な作品である。その後の文学批評の翻訳四篇は、まさに西 ヤmの新芸術を紹介する試みであり、とりわけ最後の一篇は、イタリア文学が対象となっている。すなわち、後ろでパラテクストを構成するものすべてが、何らかの形で「珊瑚集序」と関係を保っているのである。~
 最後に、この『珊瑚集』の冒頭と掉尾に配された二つの口絵のうち、前者:古代帆船の図は、珊瑚を運ぶ船である『珊瑚集』の構造そのものを反映しており、またセイレーンを描いた後者は、難破の危機を予告している。そのとき、隣頁の荷風期間作品の広告中に「絶版」として記された『ふらんす物語』『歓楽』は、座礁した船のイメージを担い、新刊として左端に記載されたこの『珊瑚集』もまた、難破の危険にさらされているのだという事態を暗示することになる。さらに、クロースの丸背・天金という豪華な装丁それ自体が、珊瑚を象っており、それを収めた函は船、函上に署名され €た「荷風」はその水先案内人となって立ち現れる。~
 初版以降、翻訳詩群のみがパラテクストから切り離された結果、ボードレール訳詩群を含め、当初のコンテクストはほとんど解読不能になってしまう。これは、世間から一歩身を退いた荷風の創作態度とも関連していると思われるが、いずれにせよ、出版当時に一冊の書物が担っていた意味を十全に把握するには、やはりその書物そのものを手に取る必要がある。  

ボードレールとデュポン―2つの『薄明』を中心に - 山田兼士(大阪芸術大学

 先に発表した小論「2つのデュポン論――『悪の華』以前/以後のボードレール」(年報・フランス研究第30号)を出発点として、民衆詩人ピエール・デュポンとボードレール詩との接点を明らかにするためのいくつかの作業仮説を発表した。以下にその概要を(作業課題とともに)3点にまとめて記す。
 (1)ボードレールが書いた2つのデュポン論(1851年/1861年)と詩作品とのクロノロジックな関係の考察。一般に「熱狂的な絶賛」から「冷静な認識」への変化とされる、ボードレールのデュポン評価の特徴を、単に評価の低下と捉えるのではなく、ボードレール自身の詩学上の変化・展開と密接な関係にあるものとして再認識すること。魂の熱狂のディスクールと呼ぶべき韻文による2つの「薄明」(「夕べの薄明」「朝の薄明」1851年)と、精神の覚醒のディスクールと呼ぶべき散文詩後期形の「夕べの薄明」(1862年)との間に見られる偏差と、2つのデュポン論の相違とのクロノロジックな関係に注目すれば、ボードレール自身の時期を隔てた詩学上の変化そのものが2つのデュポン論に極めて明確に示されていることが想像される。さらに、1861年発表の韻文詩「瞑想」の静穏かつ内省的なイメージが形を変えて「夕べの薄明」散文詩後期形に組み込まれていることや、散文詩集の総題「パリの憂愁」(1864年初出)に込められた冷ややかな叙情性等を検討することによって、2つのデュポン論がボードレール詩学解読のための(特に晩年の散文詩解読のための)重要な鍵となることが明らかになるはずである。
 (2)韻文詩から散文詩への移行・展開を検討する際に従来から重要視されている「パリ情景」詩篇(全18篇)の全体構造を再検討し、そこにいくつかの法則性を見出すこと。1861年の『悪の華』第2版に初めて設けられた「パリ情景」の章は、10篇の新作と8篇の旧作から成っているが、それら新作のうち7篇が章前半部「昼のパリ」詩群に集中し、後半部「夜のパリ」詩群における新作は3篇にすぎない。「夜のパリ」詩群とは「夕べの薄明」から「朝の薄明」にいたる9篇のことである。このことから、1861年当時のボードレール「夜」の詩から「昼」の詩への方向転換を計っていたのではないかとの推測が成り立つ。ちなみに、散文詩集総題としての「夜の詩」は1857年に一度用いられたきりでその後一度もあらわれていない。「パリ情景」詩篇の再検討が2つのデュポン論との関わりにおいて厳密になされるべきだろう。
 (3)発表の最後に、今後の課題を多く含む仮説として、2つの「薄明」および「瞑想」の計3篇の韻文詩と散文詩「夕べの薄明」(1855年の初期形/1861年の後期形)を詳細に解読することによって、ボードレール詩学の晩年の展開を、散文詩のみならず、数少ないながら持続して書かれた韻文詩篇をも含む(例えばベルギー流謫の身で書いた「ベルギー人と月」などは非常に重要な詩篇である)総合的なものとして再検討する必要を強調した。その際に見落としてならないのが、やはりボードレールによる2つのデュポン論である。今回は「労働者の歌」1篇にのみ話題が集中したが、デュポン作品のより広範な検討とより深い読解が今後の課題であると思われる。とりわけ、労働や貧困や庶民の精神生活など、日常的現実的細部を叙情的に歌ったデュポンの歌謡と、ボードレール晩年のある種のレアリスムとの関わりは、深い結びつきを示すものとして注目に値するだろう。従来、デュポンとボードレールとの関係については、もっぱら韻文詩、それも特に初期の歌謡調の作品ばかりが注目されてきたが、それよりむしろ、晩年の作品群、とりわけ写実的かつ日常的な(昼の)散文詩の数々とデュポンとの関わりこそが、詩の現代性の観点からより重要な意義をもつはずである、との展望を最後に記しておきたい。