第36回ボードレール研究会

  • 場所:アンスティチュ・フランセ関西=大阪 9階会議室
  • 日にち:2018年2月24日(土)
  • 時間:14:00〜17:00
  • 発表者:小倉康寛

司会者報告 廣田大地(神戸大学准教授)


 今回は、昨年(2017年)7月末に一橋大学にて博士号を取得されたばかりの小倉康寛さんに東京からお越しいただき、ご発表いただきました。発表者を含めて全員で12名の参加者が集まりました。

 彫刻を中心としたボードレールの美学と、女性に対する情欲という問題が、『悪の華』という詩集においてどのような関連にあるのかを検討するという、ボードレールという詩人、そして『悪の華』という詩集における本質的な問題を扱った発表であったように思います。

 前半においては、ボードレールによる彫刻に関する美術批評を、当時の文脈に位置付けるにあたり、文学史的な観点だけでなく、美術史的な観点からも検討を行い、具体的には、ディドロスタンダールだけでなく、その源流をなしているヴィンケルマンを押さえたうえで、ボードレールの彫刻観を相対化しました。

 そのようにしてボードレールの彫刻観を詩人の同時代に置き直した上で、後半では、主に詩編「美」を中心としたボードレールの韻文詩を分析し、主に女性と彫像との関係をめぐり、彫像化する女性、女性化する彫像という双方向的なベクトルのせめぎ合うものとして、その詩学の一端を解き開いてみせてくださいました。

 全体を通して、綿密にして幅広い文献学的調査と、精神分析的な流れをくんだテキスト分析とが組み合わさることで、非常に深みのある発表になっていたように思います。

 質疑応答では、『悪の華』における寓意化に関して、詩編「美」(La Beauté) や、「通りすがりの女」(A une passante) の解釈や、『悪の華』初版から第二版、そして『パリの憂鬱』という時系列の中で、女性と彫刻のテーマにどのような流れを見出せるかといった点について、参加者から質問がありました。また、その他にも同テーマにおけるゴーチエやバンヴィルとの関わりについてなど、1時間半にわたり発表者と会場の参加者との間で白熱した議論が行われました。


発表者報告 小倉康寛(一橋大学大学院言語社会研究科博士課程修了)

 ボードレールの約200篇ある韻文詩の多くは、女の身体の美しさをモチーフにしている。しかしカトリックの原罪の観念から肉欲を恥じた詩人は、自らの情欲を厳しく監視していた。G. ブランはBaudelaire(1939)で、彼の苦悩主義dolorismeを「本能に対する闘い」と表現し、超人的なボードレールの姿を示した。しかし例えばD. ヴーガはBaudelaire et Joseph de Maistre(1957)で、より禁欲的なジョゼフ・ド・メーストルと比較しつつ、欲望を徹底して排除できなかったボードレールの姿を明らかにした。「プレイヤード」叢書の注釈でC. ピショワが認めたように、詩人は超人というより、むしろ弱い男である。そして論者には、彼が自らの強すぎる肉欲に、戸惑っていたように思える。本発表では美術批評と詩に描かれた彫刻美を切り口に、彼の官能と理性の間の揺らぎを考察した。発表は二部構成である。

1.美術批評における彫刻美
 彫刻美は18世紀から近代の西欧において、肉欲と無縁な美の在り方を体現するものと見做された。ヴィンケルマンは大著『古代美術史』(1764)において、理想的な彫刻の美は、人間の精神を神の次元に導くもので、欲望と切り離されたものだと論じた。ヴィンケルマンの議論は西欧を席巻し、近代のフランスでは、賛同するにせよ、批判するにせよ、芸術を論じる上での必要不可欠のカノンとなっていた。
 ディドロの『絵画論』(1766)や、スタンダールの『イタリア絵画史』(1817)は、ヴィンケルマンの理論を古代の美を論じたものと遠ざけ、近代の美は絵画の色彩や衣服が表現する優美なものだと論じた。そしてこの時、彼らは官能を精神の自由の象徴と看做す。これがロマン主義の流れを作っていく。
 ボードレールは随所で、同時代の彫刻から理想美が姿を消したことに不服を唱えた。彼の議論の背後には、ヴィンケルマンの理論が見え隠れする。しかし『1846年のサロン』で彫刻を「退屈」ennuyeuxと批判したように、彼はディドロスタンダールの理論にも影響を受けていた。理論的な矛盾を抱えた彼は、卑俗な彫刻に官能的な価値を見出してしまう。この揺らぎに彼の戸惑いが透けて見える。

2.詩の読解 −「美」を中心に
 ボードレールの詩に登場する彫刻の数々は、彫刻作品が擬人化されたものと、生きている女が彫刻化されたものの二つ大別することができる。本発表では後者に注目し、先行研究で解釈が決定しにくいされたソネ「美」を取り上げた。「美」は単独で読めば、彫刻美を体現する女が、男たちの求愛を撥ね付けているとも、彼女が自らの価値を知る定冠詞単数の「詩人」に求愛しているとも読める。どのように詩の解釈は決定できるのだろうか。ボードレールは1857年、「一冊の〈本〉は、その総体において判断されるべきだ」(OCI, 193)と述べた。「美」は全部で3つの媒体で発表されている。本発表では特に同じ時期に推敲された2つのバージョンを比較し、「美」の解釈が反転することを示した。
 1857年4月頃に推敲された『フランス評論』発表詩群の特徴は、「美」の直後に「巨人の女」「生きている松明」が置かれていることである。2篇に登場する語り手は、乳房よりも目を愛して欲しいという美の化身の要望を受け止める。このことで「美」は、尊大な女が求愛する詩と読める。一方、1857年3月頃に推敲された『悪の花』初版で、詩人は美の化身の要望を跳ね除ける。例えば後続の「異国の香り」で、詩人は美の化身と全く違ったタイプの女を求め、その乳房を愛撫する。男の愛がないことで、美の化身は暴力的に見える。このように詩の字面は同じでも、文脈で美の化身の意味は反転しているのである。

 彫刻美をめぐって、ボードレールの態度は揺らいでいる。これは官能をめぐる彼の戸惑いを反映していると理解することができる。しかし揺らぎによって、彼の詩学は古典と近代との間を往復し、分類し難いものになっていく。こうした多面性が、彼の作品を前衛的なものにしているのではないだろうか。