第40回ボードレール研究会

第 40回ボードレール研究会-山田兼士先生 追悼

  • 日 時:2023年 3月 31日(金) 13時 00分~17時30分
  • 場 所:アンスティチュ・フランセ関西-大阪 会議室(大阪市北区天神橋2-2-11 阪急産業南森町ビル9階)

当日の参加者は16名。山田兼士先生の奥様である山下泉様と大阪文学学校校長の細見和之氏にもご出席いただき、盛会のうちに終えることができました。また中島淑惠氏からは献花が届けられました。あらためて山田兼士先生のご冥福をお祈りいたします。

プログラム(敬称略):

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・13:00~13:10 「黙祷」「開会の辞」:北村 卓

・13:10~15:10「山田兼士の世界」:

  • 廣田大地「山田兼士先生とボードレール研究会から研究者として自分が学んだこと」
  • 佐々木稔「「憂愁の詩学」の生成と射程」
  • 小倉康寛「ポリフォニーをめぐる、ポストモダン詩の課題とロマン主義研究との交叉」
  • 西岡亜紀「文才/文栽の人:「書く」視点から「読む」日本文学」

・15:10~15:30(休憩)

・15:30~16:40「研究報告・思い出」

浅井直子、清水まさ志、山口威、中畑寛之、太田晋介、森田いく子、和田ゆりえ

・16:40~17:00「メッセージ紹介」北村 卓

(中堀浩和、田島義士、塚島真美、山本健二、坂巻康司、岩津航、他)

・17:00~17:20「スピーチ」:細見和之、山下泉

・17:20~17:30「閉会の辞」:丸瀬康裕

第39回ボードレール研究会

  • 共催 : 大阪大学フランス文学研究室
  • 場所 : 大阪大学 文学研究科 中庭会議室
  • 日時 : 2019年 12月 28日(土) 14時00分〜17時00分

 

著書紹介要旨:「新著『ボードレールの自己演出−−『悪の花』における女と彫刻と自意識』について」小倉康寛(一橋大学特別研究員)

  福永武彦、モソップ、リヒターらは『悪の花』に一つのまとまりがあることを指摘してきた。しかし、そうであるとするならば、全体から数篇の詩を抜き出して分析することは、身体を解剖することにも似ている。手術は成功したが患者は死亡した」という言葉と同じで、詩集という有機体の活動を停止させるおそれはないだろうか。詩集を壊さずに内部を透視するにあたって、医者のエコー検査にも似た手法を考案したかった−−。 本発表ではこのように、拙著の「裏設定」とでも言うべきものを報告した。拙著の構成は、イメージで言えば、第一部と第二部が「エコーの検査液」を精製する準備段階である。第一部が論点を提起し、その有効性を確認する。第二部が留意するべき点を美術史的に練磨する。第三部は、分析対象であるところの詩集に、「検査液」を流し込む。「水」は複雑な構造物を駆け回り、浸透し、詩集の「五臓」を内側から発光させるだろう。 発表では前提となる生成研究の根拠もまとめた。『ボードレールのアトリエ』は資料を網羅的に収録している。資料を見渡せば『第二版』のみならず、プレオリジナル版から『初版』の成立までに、詩人の成長と葛藤に重なるドラマがあることに気がつく。これが拙著の第三部の方向を決めている。これを踏まえて、各詩群の分析も表で紹介した。さらに読解の際に、主観を排除した上で、詩人の意図した物語を抽出する手法もまとめた。 最後に質疑応答を通じて、『悪の花』関連の詩篇のありえたかもしれない配置に触れた。ボードレール自身が確定した配列を考察することは基本である。だが、ありえたものを考えると、彼の自意識が詩集で「生きて」おり、蠢き続けていることが実感できる。150篇の詩の配列は、150の階乗通りある。莫大ではあるが自然数である。AIで解析できるのではないか。将来の可能性を積極的に提起した。

発表要旨:「ボードレールにおける不可能な救済――憂愁の詩学と現在の記憶」佐々木稔(愛知学院大学非常勤など)

ボードレールの「現代性」(modernité)の理論は、芸術の半分を「一時的なもの」、残りの半分を「永遠的なもの」とするものとして知られている。この理論において、「一時的な要素」は、「芸術家にとっての現代」を指しているという点で、スタンダールの流れを汲む相対的な歴史観を基底としている。では、もう一方の「永遠的なもの」はどのように理解すべきであろうか。芸術が永遠的な性格を備えることを彼は「現代的なもの(modernité)が古代的なもの(antiquité)となる」と表現しているが、これはどのような事態を指しているのであろうか。それは、画家が観察した対象を単に模倣するのではなく、自らの記憶に基づいて「不可思議な美」を引き出すことによって可能となる。ボードレールはこれを「現在の記憶」と呼ぶ。画家自身の精神の働きによって美が抽出されているからこそ、異なる時代の鑑賞者であっても作品中に刻印された「現在の記憶」を想像力で再構成することで、作品の提示する「不可思議な美」を理解することが可能となる。これをイヴ・ボヌフォワに倣って「普遍的な読解可能性」(intelligibilité universelle)と呼ぶとすれば、この普遍主義への道を開いたところに、ボードレールの現在性の独自性があったと言える。ところで、「現在の記憶」という表現は、画家が「現在を既に過去のものとして把握している」ことを示している。これを「過去としての現在」と呼ぶこともできるだろう。実はこの時間構造は近代的な精神の在り様としての「憂愁」(spleen)の時間感覚に通底するものである。このことを示すのが『悪の華』第二版に収められた韻文詩「時計」« L’Horloge »である。「冷厳な神」である〈時計〉が告げるのは、〈今〉が片時も現存することなく、瞬時のうちに〈かつて〉になるという時間感覚である。ここから来る実存の不安は、「神の不在」が繰り返し文学的な主題となる19世紀には著しく切迫したものとなっていた。こうした時代にあって、詩人は実存の救済の可能性を芸術に求める。ところが、芸術的営為によって全ての時間を掬い取ることは不可能であり、救済は一時的かつ断片的なものに過ぎない。〈時計〉は、何もかもが「もう遅すぎる」ことを残酷にも宣言する。こうした救済の不可能性は、ボードレール自身の記憶論と背馳するように見える。『赤裸の心』には、一度存在した観念や形式は永久に消去不能であるという「記憶の不滅」の理論が読まれるからである。救済の不可能性と記憶の不滅性とはどのようにして折り合うのであろうか。解決の糸口を与えてくれるのが「忘却」である。〈今〉は一瞬で過ぎ去るが、存在した観念や作品は不滅であるため常に現存していて、消え去ることはない。それらはただ忘れ去られているだけである。ここで、「現在の記憶」の喚起が芸術制作の要件であったことを思い起こすならば、時の移ろいと忘却はむしろ創造の前提条件となる。この意味で、近代的な時間感覚は確かに芸術的営為の条件となるが、それは同時に精神を蝕むものでもある。近代の芸術家は「現在の記憶」による救済と不可分のものとして、精神的様態としての近代的憂愁を抱え込むこととなったのである。

発表要旨:「ボードレールとオーギュスト・バルビエ」清水まさ志(宮崎大学准教授)

 シャルル・ボードレールは、オーギュスト・バルビエについて「オーギュスト・バルビエ」(「幻想派評論」、1861)を残しているが、ボードレールがバルビエから受けた影響に関してボードレール研究においてあまり取り上げられていない。本発表は、ボードレールのバルビエに対する評価を今一度検証し、特に1851年に「冥府」の総題で発表された詩篇との関係でとらえ直すことを目的とする。

1861年の「オーギュスト・バルビエ」において、ボードレールはバルビエを否定的に評価するが、1851年においてはむしろバルビエに対するボードレールの評価は肯定的な側面が強かった。その経緯を考察すると、1851年の時点においては、バルビエを七月革命おいて公衆と芸術家が呼応した格好の事例として肯定的に評価していたが、1861年の時点では、バルビエは公衆に気に入られようとして詩句の完成度を蔑ろにした結果、その時代にとらわれた芸術家として否定的な評価を下したと考えられる。

ボードレールがバルビエから受けた影響として、まずバルビエの美術批評家としての視点が挙げられる。例えば、バルビエの『イル・ピアント』は詩の形で表された美術批評的側面が強く、特にそこに含まれる「カンポ・サント」はピサの「カンポ・サント」の壁画「死の勝利」の美術批評とみなされる。それゆえ、その詩に影響を受けたボードレールの「無能な修道僧」は、バルビエの美術批評的視線を十分意識していると考えられる。

また「スプリーン」の観点でも影響を受けていると考えられる。バルビエの『ラザロ』に含まれる「スプリーン」は、ヨーロッパの「北方」の近代都市ロンドンのスプリーンを描き出す。ボードレールは、ロンドンと同じく「北方」の気候風土に属し、そしてロンドンに劣らない近代都市であるパリの生活がもたらす倦怠をスプリーンとして描き出そうとしたと考えられる。1851年に「冥府」の総題で発表した際に最初に置かれた詩篇「スプリーン」は、『悪の華』においても四つの「スプリーン」詩篇の最初に置かれ、まさに気候風土と都市生活という二重の観点で舞台が設定され、屋外から室内へと読者を導いていく象徴的な詩である。

一方において、ボードレールとバルビエは、理想を追い求める態度において決定的に袂を分かつ。ボードレールは「芸術家の死」において、死をもってしても超自然的な理想を追求しようとする態度を鮮明にするが、バルビエは「誘惑」において描くように、超自然的な光景を見せるサタンの誘惑を退け、信仰心に従いこの世の運命に甘んじることを選ぶからである。

バルビエの詩を読むとき、死や倦怠の主題、さらに美術批評的な観点においてボードレールに与えた影響は蔑ろにできないと考えられるが、しかし公衆と芸術家の関係の観点、詩の目的と完成度の観点、そして理想を追い求める態度においてボードレールとバルビエは決定的に異なり、バルビエと比較することでボードレールのそうした観点の主張が明確に浮き彫りにされる。

第38回ボードレール研究会

  • 場所 : 神戸大学 梅田インテリジェントラボラトリ(大阪府大阪市北区鶴野町1−9 梅田ゲートタワー8F)
  • 日にち: 2019年3月11日(月)
  • 時間 : 14時00分〜17時00分
  • 発表1
    • 発表者: 鈴木 麻純(首都大学東京M2)
    • 題目 : 「ボードレールの詩的喚起における匂い/香りの機能 ―夢想空間を漂う香り―」

報告 廣田大地(神戸大学准教授)

第38回目となる今回の研究会は、春休み期間で大学での授業がないということもあり、例外的に週末ではなく月曜日の開催となりました。あいにくの雨模様で、すこし肌寒いくらいでしたが、昼過ぎには雨も止み、合計10名の参加者を得て、14時過ぎに研究会を始めました。

一人目の発表者である、鈴木麻純さんは、「香り」というボードレール研究においても繰り返し論じられてきた観点に注目し、「embaumer」(防腐処置を施す)、「animer」(生命を吹き込む)、「relier」(繋ぐ)の3点から、ボードレールの詩作品における「香り/匂い」の役割を包括的に論じてくださいました。バシュラール、プーレを中心としたテーマ主義研究によるものから、Zimmermannやスタロバンスキーによる比較的近年のものまで、重要な先行研究にも言及しつつ、オリジナリティーのある視点を提示しようとする意欲的な発表でした。実際、「défunt」(死んだ/達成された)、「essence」(本質/香り)といったフランス語の二重性を掘り起こし、そこからボードレールの詩句の再解釈を行う手腕は鮮やかなものでした。

会場からは様々な意見がありましたが、『パリの憂鬱』において出てくる、不快な現実を表すような「埃っぽいすえた匂い」に関する言及が、発表において意図的に除外されていたが、そのような匂いの俗っぽい面も含めたほうが論に厚みが出てくるのでは、という意見や、ボードレールの詩人としての活動の中で年代による「香り/匂い」の取り扱いの変化があるのではないだろうか、という意見があり、発表者にとっても大いに参考になったと思います。また他にも、「embaumer」(防腐処置を施す)という単語に関して、当時エジプトで発見されたミイラとの関係は?といった質問がありました。

二人目の発表者、平野真理さんのご発表は、ボードレール1861年に発表した批評『わが同時代人の数名についての省察』における「ヴィクトル・ユゴー論」に注目し、この作品を丹念に読み解くことで、当時のボードレールユゴーと対峙し、自らの芸術家としての立ち位置を明確にするために練られた、この批評作品の中にある戦略性を明らかにしようとするものでした。上記の作品に加え、ボードレールの書簡など様々なテキストが次々に引用されていくなかで、ボードレールユゴーに寄せた共感と批判の双方の眼差しが浮かび上がっていきました。ボードレール研究においては、しばしばユゴーボードレールと対立する要素として一面的に論じられることが多い中、平野さんのご発表は、主に「二項対立を超えた美の意識」という点において、二人の詩人が同じ価値観を共有しつつも、ユゴーにおいては「美と醜」「光と闇」のような二項対立が分離したまま提示されるのに対して、ボードレールにおいては「crépuscule(薄明かり)」の中に対立項目が溶け合った姿が提示されるという趣旨であり、特にこの点は明確で説得力があると感じました。

会場からは、連作として発表された他の詩人たちについての批評との関わりについての質問があり、今後、ユゴーだけでなく、ゴーチエやバンヴィルについての批評についての分析することで、より論を深めていくことが期待されました。また、発表で提示されたボードレールユゴー観が、実際にボードレールの詩作の中にどのように反映されているのかも知りたいという意見もありました。

発表要旨:「ボードレールの詩的喚起における匂い/香りの機能 ―夢想空間を漂う香り―」鈴木 麻純(首都大学東京M2)

発表要旨:「ボードレール1861年の美学 ―詩人ヴィクトル・ユゴーを通して―」平野 真理(関西学院大学文学部非常勤講師)

第37回ボードレール研究会

  • 場所:神戸大学 梅田インテリジェントラボラトリ(大阪府大阪市北区鶴野町1−9 梅田ゲートタワー8F)
  • 日にち:2018年12月23日(日)
  • 時間:14時30分〜17時00分

発表者 山田 兼士(大阪芸術大学教授)

パリの憂愁

パリの憂愁

報告 廣田大地(神戸大学准教授)

今回の研究会は、山田兼士先生がこれまでのボードレール散文詩研究の一つの集大成として、2018年9月に『小散文詩 パリの憂愁』を出版されたことを記念して、この著作とこれまでの散文詩研究について紹介していただくことになりました。

参加者は総勢21名と、普段以上に多くの方々にお集まりいただき、また、関西だけでなく、北陸地方や、東京、九州などの遠方からもご参加いただくことができました。

発表の前には、20年以上にわたり続いているボードレール研究会の初回からのメンバーから、今回初めてご参加くださった方まで、お一人ずつに自己紹介をしていただきました。

山田先生のご発表では、ご自身のボードレール散文詩に関する研究について、時系列に沿って過去を振り返るかたちでお話いただきました。ご発表の中では、ご自身のこれまでの経験をもとに、今回多く参加していた若手研究者を意識して、今後研究を続けていく上での幾つかの教訓を示してくださったのが印象的でした。たとえば、ボードレール研究に本格的に着手するに際して、福永武彦の研究を行なったことを例に、「研究者の研究をしよう」。または、ご自身で複数の同人誌や一般誌を企画してきたことを例に、「発表の場がなければ自分で作ろう」。このような経験に基づくメッセージは、ボードレール研究に限らず、今後の人文学研究全体においても重要な姿勢であるように感じました。

研究会の後に引き続き会場近くの店舗にて行われた懇親会では、30代から70代までの幅広い世代の間で、和気あいあいと親睦を深めることができました。

第36回ボードレール研究会

  • 場所:アンスティチュ・フランセ関西=大阪 9階会議室
  • 日にち:2018年2月24日(土)
  • 時間:14:00〜17:00
  • 発表者:小倉康寛

司会者報告 廣田大地(神戸大学准教授)


 今回は、昨年(2017年)7月末に一橋大学にて博士号を取得されたばかりの小倉康寛さんに東京からお越しいただき、ご発表いただきました。発表者を含めて全員で12名の参加者が集まりました。

 彫刻を中心としたボードレールの美学と、女性に対する情欲という問題が、『悪の華』という詩集においてどのような関連にあるのかを検討するという、ボードレールという詩人、そして『悪の華』という詩集における本質的な問題を扱った発表であったように思います。

 前半においては、ボードレールによる彫刻に関する美術批評を、当時の文脈に位置付けるにあたり、文学史的な観点だけでなく、美術史的な観点からも検討を行い、具体的には、ディドロスタンダールだけでなく、その源流をなしているヴィンケルマンを押さえたうえで、ボードレールの彫刻観を相対化しました。

 そのようにしてボードレールの彫刻観を詩人の同時代に置き直した上で、後半では、主に詩編「美」を中心としたボードレールの韻文詩を分析し、主に女性と彫像との関係をめぐり、彫像化する女性、女性化する彫像という双方向的なベクトルのせめぎ合うものとして、その詩学の一端を解き開いてみせてくださいました。

 全体を通して、綿密にして幅広い文献学的調査と、精神分析的な流れをくんだテキスト分析とが組み合わさることで、非常に深みのある発表になっていたように思います。

 質疑応答では、『悪の華』における寓意化に関して、詩編「美」(La Beauté) や、「通りすがりの女」(A une passante) の解釈や、『悪の華』初版から第二版、そして『パリの憂鬱』という時系列の中で、女性と彫刻のテーマにどのような流れを見出せるかといった点について、参加者から質問がありました。また、その他にも同テーマにおけるゴーチエやバンヴィルとの関わりについてなど、1時間半にわたり発表者と会場の参加者との間で白熱した議論が行われました。


発表者報告 小倉康寛(一橋大学大学院言語社会研究科博士課程修了)

 ボードレールの約200篇ある韻文詩の多くは、女の身体の美しさをモチーフにしている。しかしカトリックの原罪の観念から肉欲を恥じた詩人は、自らの情欲を厳しく監視していた。G. ブランはBaudelaire(1939)で、彼の苦悩主義dolorismeを「本能に対する闘い」と表現し、超人的なボードレールの姿を示した。しかし例えばD. ヴーガはBaudelaire et Joseph de Maistre(1957)で、より禁欲的なジョゼフ・ド・メーストルと比較しつつ、欲望を徹底して排除できなかったボードレールの姿を明らかにした。「プレイヤード」叢書の注釈でC. ピショワが認めたように、詩人は超人というより、むしろ弱い男である。そして論者には、彼が自らの強すぎる肉欲に、戸惑っていたように思える。本発表では美術批評と詩に描かれた彫刻美を切り口に、彼の官能と理性の間の揺らぎを考察した。発表は二部構成である。

1.美術批評における彫刻美
 彫刻美は18世紀から近代の西欧において、肉欲と無縁な美の在り方を体現するものと見做された。ヴィンケルマンは大著『古代美術史』(1764)において、理想的な彫刻の美は、人間の精神を神の次元に導くもので、欲望と切り離されたものだと論じた。ヴィンケルマンの議論は西欧を席巻し、近代のフランスでは、賛同するにせよ、批判するにせよ、芸術を論じる上での必要不可欠のカノンとなっていた。
 ディドロの『絵画論』(1766)や、スタンダールの『イタリア絵画史』(1817)は、ヴィンケルマンの理論を古代の美を論じたものと遠ざけ、近代の美は絵画の色彩や衣服が表現する優美なものだと論じた。そしてこの時、彼らは官能を精神の自由の象徴と看做す。これがロマン主義の流れを作っていく。
 ボードレールは随所で、同時代の彫刻から理想美が姿を消したことに不服を唱えた。彼の議論の背後には、ヴィンケルマンの理論が見え隠れする。しかし『1846年のサロン』で彫刻を「退屈」ennuyeuxと批判したように、彼はディドロスタンダールの理論にも影響を受けていた。理論的な矛盾を抱えた彼は、卑俗な彫刻に官能的な価値を見出してしまう。この揺らぎに彼の戸惑いが透けて見える。

2.詩の読解 −「美」を中心に
 ボードレールの詩に登場する彫刻の数々は、彫刻作品が擬人化されたものと、生きている女が彫刻化されたものの二つ大別することができる。本発表では後者に注目し、先行研究で解釈が決定しにくいされたソネ「美」を取り上げた。「美」は単独で読めば、彫刻美を体現する女が、男たちの求愛を撥ね付けているとも、彼女が自らの価値を知る定冠詞単数の「詩人」に求愛しているとも読める。どのように詩の解釈は決定できるのだろうか。ボードレールは1857年、「一冊の〈本〉は、その総体において判断されるべきだ」(OCI, 193)と述べた。「美」は全部で3つの媒体で発表されている。本発表では特に同じ時期に推敲された2つのバージョンを比較し、「美」の解釈が反転することを示した。
 1857年4月頃に推敲された『フランス評論』発表詩群の特徴は、「美」の直後に「巨人の女」「生きている松明」が置かれていることである。2篇に登場する語り手は、乳房よりも目を愛して欲しいという美の化身の要望を受け止める。このことで「美」は、尊大な女が求愛する詩と読める。一方、1857年3月頃に推敲された『悪の花』初版で、詩人は美の化身の要望を跳ね除ける。例えば後続の「異国の香り」で、詩人は美の化身と全く違ったタイプの女を求め、その乳房を愛撫する。男の愛がないことで、美の化身は暴力的に見える。このように詩の字面は同じでも、文脈で美の化身の意味は反転しているのである。

 彫刻美をめぐって、ボードレールの態度は揺らいでいる。これは官能をめぐる彼の戸惑いを反映していると理解することができる。しかし揺らぎによって、彼の詩学は古典と近代との間を往復し、分類し難いものになっていく。こうした多面性が、彼の作品を前衛的なものにしているのではないだろうか。

第34回ボードレール研究会

場所: 大阪大学 言語文化研究科 B棟1階 小会議室
日にち: 2015年12月28日(月)
時間: 14:30~17:00

発表:
和田ゆりえバタイユボードレールに関して(予定)」

中島淑恵、北村卓、廣田大地 「ナッシュヴィル・ヴァンダービルド大学のボードレールセンター訪問報告」