第17回ボードレール研究会

司会者報告 - 北村 卓(大阪大学

 第17回ボードレール研究会は、2月21日(土) 午後2時より大阪大学文学部にて開催され、2件の発表がありました。参加者は20名。~
 最初の発表は、廣田大地氏の「『悪の花』における時間」。『悪の花』第二版に出現する「temps」という語の17の用例について、そのほぼ半分が、詩人の「理想」の背景をなす「主体的な時間」であり、残りは擬人化された大文字の「Temps」すなわち「憂鬱」の世界を支配する「客体的な時間」であること、また前者は空間的な無限と結びつき、後者は反復運動のイメージと結びついていること、さらにこれら二つの時間が、詩集の中で交互に現れ、最後の長詩「旅」においては、二つの時間が絡み合い、「私」と他者である「読者」もまたそこで結びつけられていること、をテクストを詳細に検討しつつ、説得的に論じられました。~
 質疑応答では、spleen, mélancolie, ennui といった語の意味内容、プーレなどの先行研究を中心に、活発な議論が交わされました。~
 ボードレールにおける「時間」については、数々の先行研究がありますが、廣田氏の発表は、新たな研究の可能性を充分に予感させるものでした。今後は、作品のクロノロジックな側面においてもさらに精緻に検討を重ね、対象も散文詩にまで広げて一つの大きな研究としてまとめられることを期待いたします。~
 二つ目の発表は、丸瀬康裕氏による「中原中也ボードレール」。丸瀬氏は、まず中原中也におけるフランス詩の翻訳を概観した後、その中でボードレールがどのような位置をしめているのかを、「時こそ今は・・・」にみられるような、自作詩への取り込み、「饒舌」Causerieの翻訳の問題、エッセイ「海の詩」と L'Homme et la Mer の比較、「序詞」Au lecteur と「祝詞」Bénédictionの翻訳草稿、デボルド=ヴァルモールの翻訳との比較、そして「序詞」の最終行「−知らないなんて、うそおっしゃい!」という中也の大胆な意訳の解釈を通して、明らかにされました。中也およびボードレールの詩への丹念かつ深い読みによって、ボードレールと中也の詩的精神が交叉する地点が浮き彫りとなったように思います。こうした検討を踏まえた上で、中也がボードレールを、人生の鏡、人生観照的なものとして捉えていたのではないかとする丸瀬氏の結論は、きわめて説得的でありました。
 質疑応答では、とりわけ、中也がボードレールの『悪の華』を全訳する意図を持っていたのはないかとする山田兼士氏との間で、熱い議論が展開されました。~
 丸瀬氏の厳密かつ深い詩の読解が、さらにボードレールランボー以外の詩人たちにも向けられ、中也におけるフランス詩翻訳の全体像および中也の詩的世界が明らかにされることを心より希ってやみません。

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第17回研究発表要旨

『悪の花』における時間 - 廣田 大地 (大阪大学文学部4回生)

 ボードレールにおける時間の観念を巡って、これまでも多くの研究が重ねられてきたが、それは詩人の意識そのものを解明しようとするような観念的な論が中心であったように思われる。ボードレール自身が「前もって選んだ独特の枠に当てはめて」その詩篇を作ったと述べている『悪の花』において、時間という重要な主題は、その「秘かな構築」にどのように関わっているのだろうか。拙論では、詩集『悪の花』におけるtemps「時間」という単語の用例に焦点を絞り、自身を苦しめる「時間」という観念を、詩集の構成のために詩人がどのように効果的に利用しているかを明らかにしたい。
tempsという単語は『悪の花』第2版の中で17回用いられている。そのうちほぼ半分は、例えば « En ces temps merveilleux où la Téologie fleurit [...] » というように、逆説的にも時間の流れを感じさせない、過去の中に固定された時間として用いられ、詩人の理想や陶酔の感覚を表している。一方、その他のtempsという単語は、主に頭文字を大文字で表記し、詩人を苦しめる敵として描かれている。その中でも、第2版で付け加わった第38番目の « Un Fantôme » における « Chaque jour »、80番目の « Le Goût du Néant » における « minute par minute »、そして85番目の詩篇 « L’Horloge » における « la Seconde » は、「憂鬱と理想」の章の中で次第に深まり行く憂鬱を、時間の単位を次第に細分化していくことで表している。その2つの「時間」は、『悪の花』における中心的対立である理想と憂鬱を、それぞれが表しているだろう。第2版の全詩篇126篇の順番に沿って、これら17回のtempsの用例を並べてみると、理想を表すtempsと、憂鬱を表すtempsとが交互に配置されており、理想と現実、善と悪といった二元性の間を錯綜する詩人の姿を髣髴させる (図を参照)。

1 Bénédiction temps
9 Le Mauvais Moine temps
10 L’Ennemi   Temps
11 Châtiment de l’Orgueil temps  
19 La Géante  temps  
30 De profundis clamavi l’écheveau du temps
38 Un Fantôme Temps
47 Harmonie du Soir  temps
48 Le Flacon temps
49 Le Poison  temps  
80 Le Goût du Néant Temps
85 L’Horloge Temps
101 Brumes et Pluies  temps
106 Le Vin de l’Assassin  temps
126 Le Voyage   Temps
126 Le Voyage il est temps! (判別不可)

この理想の時間、憂鬱の時間の性質を、他の面から見ると、理想の時間は、巨大な空間や直線という空間的な無限と結び付き、一方、憂鬱の時間は、反復運動や円運動という繰り返しに結び付いている。後にボードレールは『小散文詩』の一詩篇 « Le Thyrse » の中で、曲線が直線の周りに絡みついたバッコスの杖の姿により二元性の理念を具象化しているが、『悪の花』における二元性もまた同様に、直線により象徴される理想と、曲線により象徴される憂鬱とによって認識することができるだろう。~
 このような『悪の花』における二元性は、 冒頭の詩篇 « Au Lecteur » で「偽善的な読者、わが同胞よ!」と呼びかけられる「読者」を、詩人の立場に引き寄せるための戦略でもあるだろう。憂鬱の時間は、擬人化されることで、詩集における主要登場人物とでもいうべき「詩人」とは異なるもう一つの主体となっている。« Le Voyage » や « L'Ennemi » のような詩篇では、「詩人」の敵として描かれている「時間」だが、例えば « L’Horloge » では、詩人によって演じられた大時計の発した言葉により、24行中22行の詩句が構成され、本来対立する「詩人」と「時間」とが、大時計の声の中で一つに重ね合わさっている。その同一化の裏には、「詩人」の辛辣な言葉を受け取る「読者」と、「時間」に苛まれる「詩人」との同一化が隠れているのではないだろうか。また、詩集の最後の詩篇 « Le Voyage » の結末では、永遠の象徴としても、繰り返す時間の象徴としても読み取れる « gouffre »「深淵」によって二元性が一つに結び付けられているが、その « gouffre » へ進んでいくのは、 « nous » 「我々」である。このように、tempsという言葉を扱った詩篇では、1人称複数の表現が巧みに利用されており、そこからも「詩人」と「読者」を結び付けようとする意図は明らかである。~
 そのような、憂鬱と理想、自己と他者という2つの対立構造を結び付けることで、読者を憂鬱と理想の相克が生み出す世界の中に導く鍵となる存在が、『悪の花』における時間の観念なのではないだろうか。

中原中也ボードレール - 丸瀬 康裕(関西大学非常勤講師)

 生涯にわたってフランス詩に深い関心を寄せ、またその翻訳をつづけた中原中也にとって、ボードレールの存在とはどのようなものであったか。~
 もっとも多くの作品を翻訳したのは、出版社の依頼ということもあるにせよ、ランボーである。彼自身の共感と内的な要請があってのことであり、中原とランボーについてはすでに多くのことが書かれている。ついで翻訳点数として多いのは、ネルヴァル、ヴェルレーヌ、デボルド・ヴァルモールの5篇から6篇、ヴィヨン、ボードレールが3篇、その他1、2篇である。これらの多くは、それぞれの詩人の作品集および『フランス詩の8世紀』(チェンバレン編)などから中原自身が選び出したものである。ボードレールについて言えば翻訳作品は見たようにわずかであり、したがって先行研究は少ない。ボードレールとの関わりをひとつひとつ点検していくことで、中原にとってのボードレールという問題について、われわれは何が言えるのか、そして何が言えないのかをできるだけ明らかにしてみたいというのが本発表の目的である。~

1. 自作詩への取り込み [#qd766291]

1)「時こそ今は」と「夕べの諧調」(ボードレール) 2)「羊の歌」と「敵」(ボードレール)3)「いのちの聲」と「異邦人」(ボードレール) 4)「つみびとの歌」と「敵」(ボードレール
たとえば、「時こそ今は」ボードレールの「夕べの諧調」の冒頭2行を換骨奪胎したものをエピグラフとして使用。また本文の中にも混入。中原はこれを直接原詩からではなく、上田敏の訳詩をアレンジして取り入れている。ボードレール詩の持つロマンチックな雰囲気とその音楽的な響きに感応して、それをエピグラフの中に凝縮させる。そしてブランドとしての「ボードレール」という刻印。中原の作品もまた、恋人へのやさしい呼びかけと親密な気分を喚起しようとし、原詩のパントウムにならった反復と循環性を持つ。自作詩を立ち上げる契機として、詩の「歌いだし」のためのサンプリングであり、ひとつの基調音となって中原詩の中に吸い込まれていく。その意味でボードレールは中原の詩語の中に滑らかに吸収され、そこに衝突や摩擦はない。ボードレールの詩世界への理解とは別のところで処理されている。

2. 翻訳詩「饒舌」 [#tbc66c97]

中原が生前発表した唯一のボードレール詩の翻訳。第2連以降の複雑な位相の変容と屈曲を読み取っていない。中原は第1連の甘美なロマンチスム(彼の偏愛する「空」のイマージュへの親近性)に魅かれただけかもしれず、全体としての理解は消化不良というべきである。

3. エッセイ「海の詩」とボードレール「人と海」 [#ha7fee02]

ボードレールが、人間と海の、その倫理的なありようをアレゴリックに検証するのに対し、中原は時空間の茫々たるさまに気持ちが向かっていく。ボードレールには強烈な意識性と、人間と海の類似と対立の指摘はあるが、時空へと向かうリリスムはない。ここにはないリリスムを中原は読みとるのである。

4. 2篇の翻訳草稿「序詞」「祝詞」 [#d23e52b7]

「序詞」の場合、中原の訳文は一行一行がかなり短い。言葉を変え修辞を重ね、息の長いリズムとゆったりとした波長でうねっていくボードレールの言葉のひとつひとつに、中原はこだわることなく、しばしば簡略に処理していく。「祝詞」に対しては呪われた詩人の宿命性に中原自身の共感があったと思われるが、翻訳としては「序詞」と同じく、少なからぬ語句を省略したり、自らの理解にあわせた要約がみられる。しかし、このような訳し方が、当時の中原の訳詩における際の「癖」として片付けることができないのは、同時期に試みたデボルド=ヴァルモールの翻訳と比べてみるとわかる。後者の場合、中原は語句の間引きはせず、逐語的ながら、のびやかに、自らの歌の気息と重ね合わせるように、原詩の味わいを訳出し得ていると思われるからである。

5. 「序詞」の最終行 [#q7fe71f5]

中原において、ボードレールをついに十分に理解するにいたらず、互いの詩精神はなんら交錯することなく、西洋著名詩人のペダンティックな文学的装飾としてのみ彼の前を素通りしていったのだろうか。「序詞」の最終連に注目してみると、最終行をHypocrite lecteur, --mon semblable, --mon frèreを「知らないなんて、うそおっしゃい!」ときわめて大胆に意訳している。これをどう評価するべきか。外なるイメージ世界を読者の内部へ通底させるべく配列された原詩の一語一語のつらなりの論理も音響もその一切を無視して、ここで中原は一気に下世話な情意的言語におきかえる。この女言葉で発せられた一行は、しかし、明らかに唐突な外からの声の闖入という印象を強く打ち出し、その意味で中原はこの最終行の位相を正確に把握しているといえる。この読者に向かって身をくねらせておどけて見せる嬌態は、中原の道化的資質を掬い上げながら、途方もない名訳となりおおせていると言える。

6. 結語 [#o085ae60]

デボルド=ヴァルモールの場合、詩句は論理ではなく感情に支配されながら動いていくので、中原のようにときに大胆な省略があっても、そこを補う「歌」があれば、彼女の詩の等価物となることが可能なのであり、そして中原は彼女のような作品を得意とするのであるのに対し、ボードレールについては、当初、意匠として自らの詩作品に流行の装飾品のように飾るのだが、晩年になって、人生観照的な関心の高まりの中で接近してはいるにしても、両者の資質には埋めがたい径庭があった。しかし、その強い反撥力から「序詞」最終行の訳語は奇跡のように生まれたのである。