第4回ボードレール研究会

司会者報告 - 北村卓(大阪大学

 第4回ボードレール研究会は、1999年9月11日(土)の午後、神戸港を眼下に一望する神戸大学滝川記念学術交流会館にて行われました。参加者は8名。~
 まず最初の発表は、中堀浩和氏(甲南女子大学)による「ヴァンダービルト大学のボードレール研究センターを訪ねて」。1996年8月6日から10日にかけて、アメリカ合衆国テネシー州ナッシュビルにあるヴァンダービルト大学ボードレール研究センターを訪れ、研究された経験をもとに、同センター設立の経緯から現在の状況にいたるまでの詳細な報告がなされました。故W.T.Bandy氏の尽力によって、1968年に設立され、ボードレールの研究誌『Bulletin Baudelairien』を刊行している同センターは、現在、Cl. Pichois所長のもとに運営されており、約6万項目の文献を所蔵し、マニュスクリ類は少ないものの、ボードレールの初版本や雑誌のプレオリジナル、さらには世界各国のボードレール関連文 ,献がきわめて充実しているとのことでした(ただし文献の複写はできない)。また、中央図書館の職員や実際にセンターの実務に携わっている研究助手のC.Guillardさん、旧編集委員のJ.S.Patty氏、さらには宿泊先のホテルのスタッフなどがとても親切で、さまざまな便宜を図っていただいたそうです。センター・大学キャンパス・ホテル・ナッシュビルの街並み・遊覧船など、中堀氏が撮影された数々の写真を紹介していただきながら、貴重な体験談を伺うことができました。~
 二つ目の発表は、山田兼士氏(大阪芸術大学)の「『パリの憂愁』の女たち―ドロテからビストゥリへ」。氏はまず、『悪の華』が決して閉じられた体系ではなく、第二版(1861)の内部において、すでに自らを脱構築し越境する企図が実現されていることを、「夜のパリ」(閉鎖性・単一性)から「昼のパリ」(開放性・複数性)へという観点から、「パリ情景」詩篇群、とりわけ第二版において新たに加えられた新作10篇の *主題や構成を綿密に検証した上で明らかにし、ボードレールの描く女性像もまた、いわば詩人を夜から昼へと解放する新たな存在へと転換していると指摘されました。そして、1860年頃にボードレールがたどり着いたこうした女性像を最も鮮明に示す作品こそ、芸術詩篇の末尾に置かれた「美への賛歌」であって、そこでは、様々な対立や矛盾をもはや解消しようとはしない「異化のコレスポンダンス」を具現する存在としての女性像がはっきりと打ち出されており、『パリの憂愁』との結節点をなしていることを、きわめて説得的に論証されました。以上の議論を踏まえて、『パリの憂愁』における女性像を、豊富な資料をもとに逐一吟味しつつ、散文詩50篇のうち、63年を境に、それ以前に制作されたものと、それ以降のものとを便宜上区分し、さらにそれぞれを代表する作品として「麗しのドロテ」と「マドモワゼル・ビストゥリ」を採り上げ、両者を徹底的に比較検討した上で、前者がいわば 4「悪の華」風の彫像的女神、韻文的・定型的な近代女性を描いているのに対し、後者は、生身の成熟した女性、散文的・非定型的な現代女性を表現している、との結論に至りました。また、このテーマとの関連で、カミーユ・コローが描いた二つの女性像「憂鬱」「考える若い女あるいは瞑想」にも言及され、今後の研究の一端を垣間見ることができました。限られた時間内の発表という制約もあって、二つの女性像の分析に当たっては、やや図式的な印象を与えたきらいもありましたが、『悪の華』から『パリの憂愁』への詩学的転換を背景に、その女性像の解明に挑んだ意欲的かつ多くの示唆に富んだ発表で、その結実が大いに期待されます。~
 質疑応答においては、近代/現代の区別の有効性、「ドロテ」における散文的要素、狂気の系譜における「ビストゥリ」、ドロテにおける「悪の華」的要素、散文詩篇を前半と後半に区分する根拠、といった点を中心に活発な意見が交換されましたが、時間の制約上、残 =念なから議論を尽くすには至りませんでした。なお、研究会終了後、懇親会が催され、和やかで熱い議論が夜遅くまで交わされました。

ヴァンダービルト大学のボードレール研究センターを訪ねて - 中堀浩和(甲南女子大学

 ボードレール研究バンディセンター(The W.T. Bandy Center for Baudelaire Studies)はアメリカ南部テネシー州の州都ナッシュヴィルにあるヴァンダービルト大学(船舶・鉄道で財を成したオランダ系アメリカ人のヴァンダービルトにより1873年に設立された)の中にある。同センターは、1968年同大学の中の人文科学単科大学により、フランス語・イタリア語学部と中央図書館の共同企画で、バンディ・コレクションを核に創設された。なお、センターは、詩人・評論家でボードレール研究家としても著名なパスカル・ピアのコレクションとパリの国立演劇学校の演劇史の教授で、作家・翻訳家でもあったジルベール・シゴーのコレクションを所蔵している。~
 20年 G゚く前にボードレール研究センターが発行しているBulletin Baudelairien17号第3分冊(1982年12月)の文献目録を国内で入手して初めて同センターの存在を知った。センターの正式名称はボードレール研究W・T・バンディ・センター(Centre W.T. Bandy d'師udes Baudelairiennnes)である。 たまたま私が求めた17号第3分冊はバンディ氏の著作目録(1923〜1982)で、彼の古希祝賀記念号であった。センターの所長はフランス人のクロード・ピショワ(プレイアード版の最新版ボードレール全集の編者)となっていた。Bulletin Baudelairienは1965年に創刊され、協力者の中にボードレール研究家として著名なジャン・ポミエ、マルセル・リュフ、ルネ・ガラン等が名を連ね、その中に日本人としては阿部良雄の名も見られた。Bulletin Baudelairienは原則として1号3分冊の形式をとり一年に3回(4月、8月、12月)発行されていた。1分冊はほぼ2年以内に出版された文献目録、他の2分冊は短い論文形式のもので、1999年迄に33号出てい x鬘1982年で既に3万項目の分類カードを備え、1995年の段階では6万項目に増えていた。そして国からの助成をえてコンピューターで情報処理されているとのことだった。~
 ボードレール研究センターは国際色豊かで、収集された文献の量も多く、ボードレールだけの研究機関としてはフランスはおろか世界中にも例のないユニークな存在であり、文献は主に欧米を中心としたものであるとはいえ、フランスを越えてボードレール研究が続けられ、その中心的な役割を果たそうとしているかに思われた。今までどちらかと言えばフランスに目を向け過ぎていたようなので、折りあらば是非一度訪ねたいと思っていた。~
 1996年7月11日から2カ月余り在外研究の機会に恵まれた。主要な目的地はパリであったが、ボードレール研究センター訪問がかなうならと思い、日本を発つ前にセンター宛に手紙を出しておいた。 何分にも夏期休暇中のことでもあり、返事を受け取る前に日本を発つことになった。ところが、パリに着いて数日後に、日本から転送された同センターの研究助手セシル・ギヤールさん ≠フ返事を受け取った。7月11日から8月5日までセンターは閉館ということだった。 閉館中でも図書館のフランス・コレクションの責任者であるボワイエ夫人が対応してくださるだろうが、できればその間は避けてほしいという大変親切な文面だった。ともかく必要書類を送り、日程を調整して8月5日をめどに出発の準備にとりかかった。パリからナッシュヴィルへの直行便はない。8月3日土曜日パリを離れ、ニューヨークで2泊し、8月5日月曜日午前11時10分発の飛行機でニューヨークを発ち、1時間15分程でナッシュヴィルに到着した。 時差は1時間。 思いのほか近い感じがした。ヴァンダービルト大学に近いホテルということでパリで予約しておいたホリデイ・インに入った。日本の夏に酷似しているが、それ以上に蒸し暑かった。パリでは聞いたことがないセミの声に、一瞬日本に戻ったような錯覚に陥った。ホテルの中は冷房がよくきいていて別天地にいるような気分で、その日は旅の汗を流し、翌日大学を訪ねることにした。~
 ホテルの受付で、11日土曜日まで滞在することを確認し、用件を伝え、翌6日午後 ・時30分にタクシーを呼んでくれるように言うと、ホテルの車で送ってあげると言ってくれた。親切な申し出に感謝するばかり。フランス語が話せるジム・ロバートという年配の男性が毎日10時にセンターまで送ってくれることになった。テネシー州は1763年にイギリスに譲渡されるまでフランス領だったことを後で知り、それで謎が解けたように思った。ボードレール研究所がナッシュヴィルにあることも、どこか深いところでフランスと結ばれているような気になって来た。そういえばナッシュヴィルNashvilleにvilleというフランス語が付いているではないか。ジムにどこでフランス語を学んだのかと聞いたとき、彼のおばさんがフランス語が堪能だったからだと言ったのを思い出した。~
 翌日ジムに車でヴァンダービルト大学まで送ってもらったまではよかったが、大学のキャンパスが広くて、迷ったあげくボードレール研究センターを捜し当てたが閉まっていた。センターは中央図書館(The Jean and Alexander Library)の中の閑静な一角にある。 本館の受付に戻ると女性館員が、セシルさんは20日頃まで居ないと言い、気 uフ毒がって、電子メールで送ってやるからセシルさんにメッセージを書けと言う。私の手紙が着いているはずなのに変だなと思っていると、事務長のビル・ロブセット氏が副事務長のジョン・ハール氏とその助手である、かなり年配のピエルセンさんというスエーデン人の女性館員を連れて現れた。予想していた休暇中のトラブルに巻き込まれそうになったが、事情を察した事務長が図書館のことをいろいろと説明し、私の予定と希望を聞いてくれた。 11日にナッシュヴィルを発つので、10日まで毎日朝10時から午後5時までセンターに来たいというと、早速セシルさんに電話してくれた。 そしてパスカル君というフランス人の青年を呼んで、事務長とピエルセンさんと私の四人でセンターに行った。内部を案内して、自由に利用するようにと言ってくれた。パスカル君とピエルセンさんは5時まで付き合ってくれた。パスカル君は哲学の博士論文を準備中の学生で、ヴァンダービルト大学で教えているとのことだった。セシルさんも彼と同様に図書館の仕事をしながら研究しているフランス人らしい。~
 暸り際に、図書館の入り口で、ルイギ・モンガさんという髭を生やした痩身のイタリア人の先生に出会い、パスカル君が紹介してくれた。モンガさんはルネッサンス文学が専門で、フランス語とイタリア語を教えているという。彼は、ジェームズ・S・ペイティさんを紹介してあげると言って、書庫内にあるペイティさんの個人研究室に案内してくれた。その日は会えなかった。ペイティさんは退職された後も毎日図書館に来ておられるとのことで、次の日にお会いすることができた。ペイティさんがロマン主義の専門家であることをその時初めて知った。モンガさんと共にBulletin Baudelairienの編集委員であることは知っていたが、まさかこのような形でお会いできるとは思ってもみなかった。翌7日の午前10時少し前にセンターを訪ねると、セシル・ギヤールさんが先に来て私を待っていてくれた。パリから出した私の手紙を今日受け取ったとのことで疑問はとけた。彼女は、私がナッシュヴィルに到着した5日の日にパリから戻ってきたばかりだと言う。彼女はパリ大学の博士課程の学生で、センターで研究助手をしながらボードレール ュの美術批評に関する博士論文を準備しているとのことだった。資料はそろっており、最高の条件で研究できる訳だから、うらやましい限りである。私がパリを発つ前、所長のピショワさんはご母堂を亡くされてフランスに戻っておられると聞いていた。またバンディさんは1989年に亡くなられたので、まさかフランス人のボードレール研究者にここで会えるとは思いもしなかった。書棚に囲まれてギヤールさんと二人静かに机に向かっていると、ふとソルボンヌ大学図書館にいるように錯覚した。心理的に言えばパリとセンターはとても近いのである。~
 ギヤールさんは物静かな感じのよいかたで、こちらが求める資料をコンピューターで検索してすぐに出してくれた。7日水曜日から9日金曜日まで、午前10時から午後5時まで毎日センター通いをしたが、翌日ペイティさんが昼食を誘いに訪ねてくれた以外は、休暇中ということもあって、訪ねてくる人がいなかったので、心置きなく調べものに没頭できた。 ~
 ペイティさんは大学近辺には中華料理店が無いのでと言って、ギリシャ料理店に連れて行ってくれた。彼 |ヘ実に温厚な紳士で、フランス語で静かに屈託なく話をされるので、まるで旧知の間柄のような親密感を覚え、ここでもまたフランスにいるような気がした。ペイティさんには昼食までご馳走になった。モンガさんの言う通り本当に親切な方だった。~
 センターにはボードレール直筆の原稿は数点だけだが、初版本は全部揃っており、初出の雑誌や新聞、ボードレールに関係のある美術書や、ボードレールに関する研究書が集められているので、長期に滞在して研究するには最適の場所である。9日金曜日はセンター訪問の最終日であったが、その日の内に筆写が完了しないので、ギヤールさんに話すと、土曜日も本館は午後6時まで開いているから必要な資料があれば受付の方に渡しておくと言ってくれた。親切に3日間応対してくれたギヤールさんとはその日で別れることとなった。私は11日にナッシュヴィルを離れることにしていたが、彼女も12日から3週間の予定でフランスに戻ると言っていた。この一週間彼女は勤務で、私は研究調査のためにナッシュヴィルに居たことになるが、ナッシュ Rヴィルがパリの中にあるような錯覚に陥った。というのも、ナッシュヴィルに着いてからホテルと大学のキャンパスを往復するだけで街の様子を全く知らなかったからであろう。ジムが、夜の7時から11時までミシシッピー河支流のカンバーランド川で食事とショー付きのクルーズがあると教えてくれた。当日の朝、参加の申し込みを頼んだら、センターまで車で迎えに来てくれることになった。初めての遠出である。川風はなま暖かった。都心はホテルから4kmはあろうか。船上からネオンに縁取られた高層ビルを見るのも旅情をそそるものだった。粗削りでちぐはぐな印象は免れないが夜の風景だけでもアメリカはやはりスケールが違うなと感じた。~
 10日の午前中3時間のナッシュヴィル巡りのバスツアーに参加した。車が無ければ動けないのである。ダウンタウンはミニ・ニューヨークである。トヨタやイスズ自動車が進出してきているし、ソニーのMusic Hall の建物も目にした。それでいて日本人の姿はほとんど見かけなかった。テネシー州は #Aメリカ音楽の発祥地と聞く。ホテルでも毎夜カウボーイ姿のギター奏者が食堂の隣のバーで日変わりショーをやっていた。~
 昼過ぎにホテルに戻るとペイティさんからの預かりものがあると言ってジムが届けてくれた。今日はセンターが閉まっているので、来ないと思われたらしい。David Baguley編のA Critical Biblio-graphy of French Litterature(Syracuse University Press, 1994)の第5巻(19世紀)の中の、ペイティさんご自身も執筆参加しておられるボードレール関係の部分をコピーして届けて下さったのである。感謝感激である。図書館に午後3時から6時まで予約しておいたので出向くと、書庫内にある三畳ほどの広さの一室に案内してくれた。机と椅子があるだけの、簡素だが、窓から内庭が見えるとても静かな部屋であった。ペイティさんに礼状を書き、6時まで筆写。中国人の陳さんという館員に本を返し、ペイティさんに手紙を渡してくれるように頼んで図書館を後にし  ス。今日はリスのいる木立と芝生の広がるキャンパス内を通らないで外周道路をぶらぶらと歩いてホテルに帰る途中“御殿”という日本料理店を見つけたので入ってみた。入り口は狭いが、中は思いのほか広かった。寿司のカウンターに座り、久しぶりに日本酒(カリフォルニア米で作られた現地の酒“白山”)の冷えたのを口にした。三組ほど客があったが、カウンターは私だけで、日本人の店長に寿司を握ってもらいながらいろいろな話をしているとほどよく酔いが回ってきて日本に居るような錯覚に陥った。このような錯覚に何度陥ったことだろうか。手洗いに立った折りに、寿司だけではなくて、他にも天麩羅、すき焼きコーナーもあるのを知った。そちらはかなり客が入っていた。いろんな国の人が自然な姿で生活しているのを見るのは気分のいいものである。~
 翌日早くナッシュヴィルを発ちボストン経由でパリに戻った。その距離は短くないのにナッシュヴィルではヨーロッパとの隔たりをほとんど感じなかった。今でも不思議な気がする。短期滞在では偏った印象をもちやすい。しかしナッシュヴィルでは接した範囲内のことではあるが人種の壁は感じなかった。心理的な隔たりが無いと地理的な隔たりも無くなるのかな Mと思う貴重な体験だった。

『パリの憂愁』の女たち―ドロテからビストゥリへ - 山田兼士(大阪芸術大学

 今回の発表のうち前半の内容については既に「『悪の華』からの越境―「夜のパリ」から「昼のパリ」へ」と題した論文(『河南論集』第5号、大阪芸術大学文芸学科研究室、1999年10月)があるので、ここでは後半の内容についてのみ、ごく簡潔に記す。~
 『パリの憂愁』の全散文詩中ちょうど半分の25篇になんらかの形で女性が登場する。これらの女性像を丹念にたどっていくと、年齢も容姿も身分も様々ながら、いくつかの類型があることに気づく。その端的な実例は散文詩「情婦たちの肖像」における4人の女性像に見られるのだが、さらにそれらの類型を総合していくと、詩集前半部における「ドロテ型」と後半部における「ビストゥリ型」に大別される。ともに「娼婦」のイメージで描かれているのだが、前者はまるで古代の彫像のように冷淡な美の化身であり、後者は現代都市を彷徨する生身の病める女である。 N前者が未だ『悪の華』の韻文世界の尾を引くロマンティックな女性像に止まっているのに対し、後者は明らかに、複雑化し複数化した現代人の病理を表出するリアリスティックな人物になっている。「罪なき怪物」と詩人が呼ぶこの女性こそ、現代人の謎をまるごと体現していると言える。ボードレールの「詩の現在」はこんなところにも潜んでいるのである。詩集冒頭作品「異邦人」に言及される「女神」から巻末作品「善良な犬たち」の「熟女」への展開のうちにこそ、『パリの憂愁』の基本原理が見られるはずだ。
[[[[]]]]