第5回ボードレール研究会

司会者報告 - 丸瀬康裕(関西大学非常勤)

 今回の研究会は、1999年11月27日(土)午前10時より、日本フランス語フランス文学会関西支部会の開催と合わせて、関西学院大学で開かれた。時計台の前に広がるよく手入れされた芝生と、それを囲むようにして建つ南欧風の学舎が、晩秋の透明な光の中に美しく輝いていた。会場に提供されたF号館の、最新の空調による暖かな教室の窓からは紅葉した梢が見えた。参加者はふだんよりやや多い11名。支部会と抱き合わせにすると出向きやすい反面、役職のために出席できない会員がでること、また午後からの支部会研究発表のため、質疑に十分な時間がとれないことが難であった。~
 今回2名の発表があった。山村嘉己氏が「ボードレールランボーのはざまで――私の研究をふりかえって」と題されてお話さ 肚た。先生は、ボードレールヴェルレーヌランボーを中心に、19世紀フランス詩につねに深い関心を寄せ、『遊歩道のボードレール』(玄文社)『土星びとの歌――ヴェルレーヌ評伝』(関大出版)『象徴主義は死なず――フランス象徴主義詩史概説』(青山社)『詩人と女性』(関大出版)など、その成果をつぎつぎと発表されてこられた。このたび平成11年度をもって関西大学を退職されるが、会では、これまでの研究生活をふりかえりながら、ボードレールランボーについて体験的に語られた。当初英語の教員をされながら、ボードレール研究の志を生きられたこと、その後、60年代後半にいたり、大学紛争のさなか、教室の壁に学生の手によって殴り書きされたランボーの『地獄の一季節』の「絶対に現代的であらねばならぬ」という言葉に、文学が時代とどう切り結びえるかという問題を投げかけられたこと、などが追想され、ランボーにおける一種の突破力という部分に、今においても心情的につよく共感されるという。テクスト主義的な文学理解に終わらない社会的な視野と、壁に殴り書きする青年の心に通じるアマトゥリスムに、氏の変わらぬ行動性と若々しさがあると感じられた。~
 北村卓氏は「明治・大正期における日本の文壇とボードレール――自然主義/耽美派の構図をめぐって」と題して発表された。上田敏から田山花袋、岩野泡鳴、永井荷風谷崎潤一郎にいたる、明治・大正期の、主に散文作者において、「ボードレール」の受容がどのようになされていったかを、当時の彼らの著述の中に綿密に検証された。上田による言及はむしろヴェルレーヌの方に比重が置かれ、ボードレールは「病的作品」を著した「幽聳奇抜の鬼才」であったこと。自然主義の田山は、上田のボードレール観を継承し、さらに堕落したデカダンであり、「厭世思想を玩弄した」と一蹴する。これを批判し、内面的な世界への理解を示したのがアーサー・シモンズの翻訳のある岩野であり、さらに、永井にいたり、表層的な紹介のレベルを越えて、創作の動機にまで受容が深まる。耽美派の谷崎は、こうした流れの中で、散文詩の翻訳をし、ボードレールやポーの影響がつよく感じられる作品を書いていく。北村氏の意図は、影響の顕著な一作家における創作の問題を明らかにするのではなく、当時の日本の文壇において、「ボードレール」という言説がいかに流布していったかを文壇の ニ構図の中に辿ることにあった。昭和から平成までを視野に入れるならば、それはボードレール専門家でなければ目のとどかない日本の文壇史についてのさらに重要な研究となると期待される。

ボードレールランボーのはざまで - 山村嘉己(関西大学

 この標題は何の変哲もないと見えるだろう。年代的に言えば当り前の流れなのだから。しかし、昔からフランス文学の研究者たちの間では、ランボーからボードレールへと言うのが当然の流れとされていた。若いときにはランボーに熱を上げても、年経ればボードレールに私淑するのが当り前、若気の至りはほどほどにという忠告である。~
 従って、わたしが今ランボーに熱をあげているのは学会の常識に逆っているのである……というほど開き直っ Sたものではないかも知れないが……。わたしをランボーに向かわせたのは全共闘運動との遭遇であった。ゲバ棒の前に立ちすくみながら、「お前にとって文学とは何だ」と鋭く詰問するかれらの前で、わたしには「文学は人間が一生をかけても考え続けるべきものなんだ」と答える気力も考えもなかったことを思い出す。その時、わたしの研究室の壁にはランボーの言葉がいくつもなぐり書きされていた。たとえば《Il faut 腎re absolument moderne.》など....~
 それからの30年はわたしにとっては《文学がなぜわれわれにとって必要なものなのか》を問い続ける期間であった。今、わたしはその答えを明確に出すことができる。それは《文学はことばこそ人間を生かす最大の武器なのだ》ということだ。今さら何をではないと思う。いのちの証しとしてのことば、わたしは今、ランボーを読み、ボードレールを考え、フランス語の初級文法を教えていても、つねにこのことばを意識している。もし今、また全共闘の諸君が眼前に立ちふさがろ Nうとも、わたしは胸をはって答えるだろう。「われわれにとっていのちであることばのすばらしさをぼくは君たちに伝えるためにここにいるのだ」と。

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 ボードレールという人間は厳しい自己糾弾者であるとともに、多分にナルシストだったと思う。本人も認めているように《paresseux nerveux》だったのだ。これをかっこうよく言えば二重人だということだろう。宙吊りにされた人間ということでもある。パスカルに通う人間的迷いの基本といってもよい。~
 それに対して、ランボーという人間の何という直裁さ、かれの行動には迷いがない。まさに《l'homme aux semelles de vent》だったのだ。~
 この二人のちがいは何だったのか。たとえば作品でいえば、ランボーの《Le Bateau ivre》はボードレールの《Le Voyage》への返答だったという説がある。ランボーボードレールを《un vrai dieu》と称えながら《trop artiste》として生きていると責めたことも有名な話である。われわれはこの二人の海への旅をそれぞれな ヨ閧ノ検討してみよう。結果として、ボードレールをとろうと、ランボーをとろうとそれは各々の問題であろう。ただ、わたしにはパリ・コンミュンヌという歴史的事件に、自らの運命の転換を重ね合わせて生きたランボーの青年期が、何よりも天才というものの生きざまを垣間見せてくれる思いなのだ。それにくらべれば、ボードレールの悩みというのはブルジョワ社会における詩人の青白い煩悶とうつってしまう。こういう思いは、まさに生甲斐もない老人の繰り言なのだろうか。
 

明治・大正期における日本の文壇とボードレール自然主義耽美派の構図をめぐって - 北村 卓(大阪大学

 ボードレールが日本の文学や芸術に及ぼした影響を論じる際、学問研究・翻訳・創作といった異なる観点からのアプローチが可能であるが、移入の初期すなわ 明治期から大正期にかけては、それらの要素は不可分に混然一体となっていた。様々な領域に様々な形で波紋を投げかけていたわけであるが、そうした受容の過程を仔細にたどると、ボードレールの理解もまた、当時の日本の文学・芸術の運動や潮流と無関係ではありえなかったという事態が浮かび上がる。~
 ボードレールと『悪の花』の名が初めて日本人の目に触れたのは、明治23(1890)年、オシップ・シュービン作森鴎外訳の「埋木」とされ、その後、明治20年代後半から30年代末までは、もっぱら上田敏によって、詩の翻訳を含め数々の紹介がなされる。そして鴎外と敏により、当時全盛の自然主義に対抗して、明治42年『スバル』が発刊されることになるのだが、敏を継承して耽美派の中心となり、ボードレールに心酔しつつ正確かつ流麗な翻訳を次々と試み、日本におけるボードレール理解のレベルを一挙に高めたのが、明治41年にフランスから帰朝した永井荷風である。また荷風は翌年、鴎外と敏の推挙によって慶應義塾大学の教授となり、やはり耽美派の牙城となる『三田文学』を創刊するにいたる。このように、明治期から大正期にかけてのボードレールの受容は、耽美派の流れと軌を一にしているのである。~
 さらに荷風の激賞によって文壇に登場した谷崎潤一郎もまたボードレールに深い関心を寄せ、大正8(1919)年から9年にかけては、「ボードール散文詩集」と題して8篇の散文詩を訳出している。もちろん、田山花袋に代表される自然主義の側が、悪魔主義・刹那主義・芸術至上主義などとして、ボードレールを揶揄・非難の的としたのも、また岩野泡鳴が独自の立場からボードレールを評価したのも、こうした背景を踏まえてのことに他ならない。あえて言うなら、西洋文学・文化の移入さらには日本近代文学の成立に当たって、ボードレールは常にポレミックな焦点、自らの立場を映し出す鏡の役割を担っていたのである。~
 最後にボードレールの理解の展開について付言すれば、大正の末頃から、辰野隆鈴木信太郎、さらには堀口大學といった研究者たちの仕事によってようやく学問的レベルに達してくるが、それと同時に永井荷風谷崎潤一郎のような作家たちによってボードレールは十 全に消化され、新たな文学的世界を切り拓く発端ともなり得たのであった。