第12回ボードレール研究会

司会者報告

第12回の研究会は大阪文学学校で開かれました。目まぐるしく姿を変えつづける商都のほぼ中央にどこかしら時間から取り残されたような古い情緒を感じさせる谷町筋一角に平成の寺子屋といったらよいのか、気鋭の志をもって集まる市井の文人たちの熱気のこもる文学学校の一部屋が今回の研究会の場所となりました。参加者は10名。暮れの土曜日というなにかと会合の集中する時期にしては盛会といえましょう。今回の発表はボードレール中原中也、そしてこの研究会としてははじめてのロートレアモン。いずれも短命で「呪われた」境涯を持つ詩人たち。アカデミズムの解剖台にのせるより、実作の血の流れる場所こそが彼らにふさわしいのかもしれませ 5B~
 まず山田兼士氏が「中原中也の「憂愁」詩篇――ボードレール詩学からの反照」と題して発表されました。「時間の制約もあって、今回の発表ではその一端をうかがうにとどま」(第11回北村卓氏司会者報告)った前回の発表「ボードレール中原中也」の、そのいわば本論にあたる内容を、いつもながの山田節ともいうべき熱弁で多いに語られました。ボードレールの訳詩(『悪の花』完訳の意図があったのではないかと大岡昇平とともに山田氏も指摘)やリヴィエールのボードレール論の翻訳のある中原の詩作品はボードレールから少なからぬ影響を受けていることを、とりわけ晩年の作品、「曇天」以降から最後の未完詩篇にいたる、今回は具体的なテクストの読みの中で仔細に示されました。中原とボードレールという気質や感性においておおいに異なると思われる二人の詩人を重ね合わせるというなかなかに大胆な試みで、山田氏は、中原詩のとりわけ「空」に寄せる詩的表現のなかに多くのボ ・ドレール的な要素を指摘され、中原節に埋もれたボードレールの影と見えるものを丹念に拾いだされていきました。質疑の中で、中堀浩和氏は、ヨーロッパ象徴詩の大きな影響下にあった萩原朔太郎富永太郎など昭和初期の詩的ミリューの存在について発言されました。併せて、寺本氏からは、近代における東西の詩人の感受の在りようにおける普遍的な状況と、個々の詩人たちにおける具体的な影響関係との混同がありはしないかとの指摘がありました。司会者としては、ランボーはじめヴェルレーヌ、また「骨」などに見られるヴィヨン(「絞首罪人のバラード」)など、中原へのより顕著であると思われる影響詩人たちが視野に入っている中で考察すれば、ボードレールとの間の照応関係がよりはっきりと、かつ説得性をもつのではないか、また、中原論への貢献として「影響」の指摘は当然のことながら重要ですが、ボードレール的な部分に着目しながら、むしろそこからはみ出す部分にこそ露呈する中原という詩人の特異性を中原論として活かせばさらに面白いのではないかと思いました。~
 つぎに寺本成彦氏が「『マルドロールの歌』における「吸血鬼の変身」の変貌――ロートレアモン=デュカスによるボードレールの書換え」と題して発表されました。本発表は氏の博士論文Travail de la r試criture dans Les Chants de Maldoror de Lautr斬mont(Presses Universitaires du Septentrionから今春刊行予定)のボードレールに関する章からの報告ということですが、十分な発表時間がなく(司会者の采配の不備もあり)、かいつまんだ要約というかたちになってしまい、発表者は意を尽くせず聞き手はいささか消化不良となった感のあったことは否めません。『マルドロールの歌』に散見される文学的・科学的書換の中から、今回の発表では、ステンメスの指摘するスルスのひとつ、ボードレールの「吸血鬼の変身」が、第二帝政下において禁断詩編として詩集から追放されていたにもかかわらず、いかにしてデュカスがそれを読み得たのか、詩人の足跡と時代状況の検証を経て、さらにどのようにそれを書き換えたのかを考察されました。その中で、ボードレールのテクストが『マルドロール』において、比較項と比較対象が逆 ケ転されていること、また内容がさらに涜神的にはげしく加速されていることを検討され、それはデュカスの文学的行為であるにとどまらず、イデオロギー的な立場の表明でもあったことが、無駄のない鋭利な分析によって論じられました。質問としては、山田氏から、デュカスのパリ入場の時期について考証的な確認がありました。『マルドロール』において、瓢窃や換骨奪胎の意味するものとその文学的射程、比喩の問題、比較対象と比較項の関係性、それらの問題の前提と向かうところが、今回は、大きな論文の一部の発表ということで、割愛されたかたちで、ボードレールの一詩篇のケースのみが取り上げられたため、映画のさわり部分を見ただけのような、物足りなさが感じられたのはやむを得ないところでしょう。次の機会を期待したいと思います。

『マルドロールの歌』における「吸血鬼の変身」の変貌 ―ロートレアモン=デュカスによるボードレールの書換え― - 寺本成彦(神戸大学非常勤講師)

 ボードレール悪の華』が『マルドロールの歌』の主要な発想源をなしていることは,モーリス・ブランショも ヲツとに指摘するところであるが,それに続いてジャン=リュック・ステンメスは『悪の華』のみならず,評論集および“禁断詩篇”へもコーパスを広げ,いくつかの有力なスルスを発見・紹介している。今回の発表では,ステンメスが突き止めたいわゆるスルスのうち,1857年出版の『悪の華』初版に収録されていた「吸血鬼の変身」をロートレアモンの「第三の歌」第5ストロフとつき合わせ,書換えの詳細を検討した。~
 問題となるボードレール「吸血鬼の変身」は,1857年の名高い“『悪の華』裁判”において訴追・断罪され,公衆道徳紊乱のかどで削除されることになった詩篇のうちの一篇ではあったが,ベルギーに亡命中のプーレ=マラシによって印刷・出版された『19世紀パルナス・サティリック』(1862),『漂着物』(1866),『悪の華・補遺』(1868)にその後収録されることとなった。そのいずれかをロートレアモン=デュカスが手に取る機会があったと推測されるが,この件にまつわって指摘しなければならないのは,第二帝政治下という文脈において『悪の華』禁断詩篇を印刷・頒布・購入する行為それ自体が,ナ s|レオン三世の政府が維持する検閲制度への反感あるいは敵意に多かれ少なかれ裏打ちされるものであり,広い意味で反ナポレオン的な実践に他ならなかったということだ。~
 『マルドロールの歌』「第三の歌」第5ストロフは謎めいた淫売宿が舞台となる。もと修道院であったその陰鬱な建物で行われているいかがわしい生業を表す赤いランタンに関するくだりに着目したステンメスは,ボードレールの「吸血鬼の変身」の末尾の数行との間の無視しがたい類似性を指摘する。呼応する部分は両者の作品中でも決して大きな割合を占めるとは言えないが,ロートレアモンボードレール詩篇を構成する特徴をいくつか写し取っていることは疑えない(両者のテクスト中に見られるほぼ同一のサンタグム,共通する意味素, ヌ balancer ネ という動詞および ヌ le vent ネ /ヌ les quatre vents ネ )。ロートレアモンが,「吸血鬼の変身」をしめくくる凄惨な情景を下敷きとするだけでなく,いくつかのタームを正確に書き写そうとしている事実は否みがたい。いわば,ボードレ ヌ[ルの禁断詩篇終結部を出発点として,新たな物語を(再)出発させていると考えられる。~
 二つのテクストの類似点の再確認後,ロートレアモンによる書換え操作を具体的に検討した。ボードレールのテクストでは“吸血鬼=売春婦”のなれの果ての姿である「骸骨」が〈喩えられる対象〉 compar・ 次に続く一節すなわち「鉄の竿の先にささえられている風見鶏・看板」が〈比較項〉 comparant となっていた。それに対しロートレアモンのテクストではこの関係が逆転させられ, ヌ au bout dユune tringle de fer ネ を含む一節が〈喩えられる対象〉へ, ヌ carcasse ネ が〈比較項〉へと巧妙に置きかえられている。元のテクストに含まれるイマージュ・語彙に忠実でありながら,むしろ〈喩えられる対象〉の方を実在するもののイマージュへと逆転させつつ物語を始動させているのである。~
 主題上の類似点も無視できない。中でもロートレアモンのテクスト中,造物主=神と交わる売春婦の様子を描写するセグメントは,「吸血鬼の変身」の最初の数行の主要な特徴のいくつかを引き継いでいると見られる。売春婦の欲動の高まりとそれに伴う扇情的な仕草が共 衞して描かれるのに加え,両者とも「乳房」ないしは「胸」という身体部分が前景化されている。胸部の官能性にアクセントを置くためボードレールは「揉む」・「こねる」という動詞および乳房を持ち上げる「コルセットの張り骨」に言及するのに対し,ロートレアモンは「渦巻くサイクロンが鯨の一家をもちあげるように〔乳房を持ち上げる〕」といういささか唐突とも言える直喩を用いている。当時コルセットの張り骨は鯨のヒゲを材料として作られていたことを勘案すれば,ロートレアモンの用いるこの直喩は,〈胸を包み込む容器 contenant としてのコルセットの張り骨=鯨のヒゲ〉から,〈コルセットが包み込む対象 contenu としての胸=鯨〉へと,換喩的なずれにより得られたと見なせよう。~
 ロートレアモンにとって「吸血鬼の変身」の書換えとは,彼自身の文学的立場にとどまらず,イデオロギー上の立場をもかけた行為であったのではないのだろうか。「吸血鬼の変身」を写し取り書換える実践は,たとえそれが部分的にとどまるものであれ,第二帝政下の検閲装置によって封殺された禁断詩篇を自らの作品中へと召還することに他ならない。ボードレールが結局のところ公衆道徳紊 逅で裁かれたのに対し,ロートレアモンの作品の方は造物主が淫売宿の客となるという大胆な設定の物語を含んでいる以上,公衆道徳紊乱に加えて宗教道徳紊乱のかどで当局に追求される恐れがあったと考えても間違いなだろう。当局の訴追を恐れて印刷完了後も第二帝政下では書店の棚に並べられることのなかった『歌』が,もし何か何らかの仕方で――例えばプーレ=マラシ自身が組織していた非合法的なルートを経ることで――フランス国内で頒布されていたのなら,文学史は“『マルドロールの歌』裁判”を帝政末期の文学的事件として記憶することになったのではないだろうか。

中原中也の《憂愁》詩篇ボードレール詩学からの反照 - 山田兼士

 前回の発表に続いて、中原中也晩年の作品をボードレール詩学に即して読解した。ここでいう「晩年の作品」とは、1935年から37年にかけて書かれた詩作品のことで、詩集『在りし日の歌』に収録された詩篇と未刊詩篇の両方を指している。~
 まず最初に、ここで用いている「ボードレール詩学」の内容を(ごく大雑把にだが)要約しておく。詩人の想像力が理想的な魂の状態に憧れつつも(芸術詩篇)現実の重荷に拉がれていく様を描いた作品群(憂愁詩篇)を出発点とし、そこに詩人の魂の《憂鬱》を措定する。この憂鬱は一つの状態に止まり続けるのではなく、やがて明晰な精神の問いかけによって様々な変移、展開を遂げてより意志的な《憂愁》の状態を作りだす。さらにその《憂愁》のダイナミズムが臨界点を越えて外部に拡散した時、死者の眼差しをもつもう一人の詩人が誕生し、自在に内と外を往還することで新たな詩世界を創造することになる(「パリ情景詩篇」)。一度《外部》へと流れ出した詩人の《憂愁》は、さらなる自由と可能性を求めて韻文の殻を打ち破り《散文》の領域(より現実的日常的な都市生活の諸領域)へと広がっていく(散文詩篇)。~
 ボードレールが晩年に自ら体現した韻文詩から散文詩への展開を以上の観点から要約すれば、理想→憂鬱→憂愁→外部→散文的現実、というプログラムが成立することになり、ここに現代詩の一つの宿命(モデルケース)が確立したことになる。20世紀における(ある種の)詩人たちはいずれもこのプログラムをそれぞれに変形しながらも辿っているのであって、日本における萩原朔太郎もまた、その一典型を成していると思われる。~
 夭折した天才詩人、中原中也は、以上のようなプログラムと無縁の生涯を過ごしたように思われがちである。たしかに、その早熟な才気はむしろランボーのそれに比較するのが似付かわしく、また、歌への飽くなき探求はヴェルレーヌのそれになぞらえることができる。だが、その短い生涯の最後の数年において、明らかにランボーともヴェルレーヌとも無縁の、批評性に満ちた思想詩と呼ぶべき作品が多く書かれていることを、読者はどう理解すればいいのだろうか。その晩年の思想詩群にこそ、先に挙げたボードレール詩学からの反照が認められるのである。~
 1935年から37年にかけて書かれた中也の作品群を、今回は便宜上4つの時期に分けて考察した。(1)「曇天」(1936年5月)まで。(2)「言葉なき歌」(1936年11月)まで。(3)「蛙声」(1937年5月)まで。(4)「正午」(1937年8月)を中心に。以上(1)〜(4)の過程には、先に挙げた「ボードレール詩学」がほとんどそのままの配列展開で適用されることを検証した。すなわち、詩人の理想を描く前期詩篇(『山羊の歌』)を前提として、《憂鬱》から《憂愁》への展開、および《外部》への拡散の意志とその実現による新しい詩学の確立、である。ただ、中也の場合、あまりにも短いその晩年に、より明確な意識化のかたちで新しい詩学が体系的に示されることはついになく、ボードレール詩学の最後の展開というべき散文詩の全面展開には到らずに終った感が強い。しかし、1936年に雑誌『文学界』に発表された「散文詩四篇」は、最晩年の詩人がついにボードレール・プログラムを完成させようとの意志を垣間見せるかのように、「死後の生」とも呼ぶべき奇妙に晴朗な雰囲気を湛えており、再生への静穏かつ強靱な意志を暗示するかのようだ。中也の《歌》の彼岸に見え隠れしている《散文》への意志の裡に、ボードレール詩学の最後の反照が認められるのである。