第18回ボードレール研究会

司会者報告 - 中畑 寛之(神戸大学助手)

 第18回ボードレール研究会は、7月31日 (土)、予定時刻より少し遅れて午後2時から、大阪文学学校にて開催されました。台風到来のせいか、参加者が9名と少なかったのは残念です。~
 最初の発表、北村卓氏の「« flâneur » の眼差し−ボードレール『仮面』に関する一考察」は、『悪の華』第2版において新たにつけ加えられた詩篇のひとつである「仮面」Le Masque について、これまでエルネスト・クリストフの彫刻作品との関係から、あるいはアレゴリーの観点からなどさまざまな解釈がなされてきたが、それだけに止まらず、この詩はボードレールの詩業における転換点を示す重要な作品ではないかとする仮説を、まず第2版の構成を検討し−芸術詩編から恋愛詩編へと移行する結節点にあたる位置にボードレールがとりわけ集中的に新作を置き、補強を行っている点を指摘−、この詩が書かれた背景および1859年頃の詩人の関心の在処を的確に踏まえ、そしてテクストの詳細な分析を通して、説得的に跡づけられました。偶然通りかかった彫像をめぐる « flâneur » のまなざしで書かれた「仮面」は、「美のあり方」の問いと都市において出会うものという両面を持っており、この詩篇が第2版のまさにこの位置に置かれた意味とその重要性が明らかになったと思います。ボードレール詩の変化を内側から促したものを「パリ情景」詩群以外の場所に戦略的に配置された新作から探っていこうとする企てに、北村氏は礎をしっかり据えるたという印象を持ちました。~
 質疑応答では、「仮面」に登場する nous の解釈に関して、また『悪の華』の構造上の変化を促したものをめぐって,活発な議論が交わされました。~
 二つ目は、山田兼士氏による発表「< 世界の外 > のボードレールブリュッセル、リヨン」。ボードレール晩年のブリュッセル体験を、彼が中学時代を過ごした街リヨンでの原体験への回帰として捉え、この二つの都市を合わせ鏡に、民衆詩人としてのボードレールの可能性を浮かび上がらせようとする意欲的な発表でした。とくに、これまでほとんど研究されたことのないボードレールとリヨンとの関わりを、スタンダールの「手記」を補いつつ、ボードレールの手紙から当時のリヨン風景やその地における「弾圧者の息子」としてのボードレールの位置を見定め、つぎに『悪の華』を挟み込むように発表された二つのデュポン論の意味を問い、さらには「純粋芸術」の対極としてのリヨン派に向けた詩人のまなざしをとり上げるなど、さまざまな角度からなされた検討を踏まえたうえで、ボードレールにおける「民衆」というテーマの浮上を説く山田氏の結論は新鮮かつ魅力的なだけでなく、きわめて説得的なものでした。~
 例えば,有名な「世界の外ならどこへでも」は詩人の遺言書のように読まれ、死の世界への脱出と解釈されることが多いが、この詩篇において死は旅の仲間であり、死を伴って出かけて行く世界とはまさにブリュッセルであり、具体的な都市を想定して読むことが可能である。

      • -

第18回研究発表要旨

« flâneur » の眼差し ― ボードレール『仮面』に関する一考察 - 北村 卓(大阪大学

 『仮面』Le Masqueは、1859年11月30日Revue contemporain誌に発表された後、『悪の華』Les Fleurs du Mal 第2版 (1861) に収録され、20番目に置かれる。もともと『初版』(1857) では、『宝石』Les Bijouxがこの位置にあったのだが、この『宝石』が、裁判で削除を命じられたため、それを補うために、21番目の詩篇『美への賛歌』Hymne à la Beauté とともに『仮面』が挿入されたと考えられる。『初版』の「憂鬱と理想」Spleen et Idéal の章においては、『祝福』Bénédiction から19番目の『女巨人』La Géante までが、芸術詩篇、そして『宝石』Les Bijouxから、恋愛詩篇群が始まる構成となっていた。『第2版』では、『仮面』と『美への賛歌』が、芸術詩篇に新たに加わり、恋愛詩篇は、『異国の香り』Parfum exotique からとなる。~
 『第2版』を最も特徴づけるものは、いうまでもなく新たに設けられた「パリ情景」Tableaux parisiens の章、およびそこに新たに収められた作品群である。散文詩の理念および実践、さらにはその主題と密接な関係をもつこれらの詩篇は、近年精力的に研究がなされてきた。また『初版』以降に発表された韻文詩で、『第2版』の「パリ情景」以外の場所に収録された作品のうち、「憂鬱と理想」のいわゆる憂鬱詩篇群、および最終章である「死」La Mort に収められた詩篇についても、散文詩への移行という観点からさまざまなアプローチがなされている。それに比して、「憂鬱と理想」の芸術詩篇や恋愛詩篇は、主題の明白さゆえにか、散文詩とのかかわりではそれほど突っ込んだ議論はなされていないように思われる。とりわけ『仮面』については、従来からモデルとなった彫像の作者であるエルネスト・クリストフErnest Christophe (1827-1892) との関連、アレゴリーの問題、さらには虚構/現実の二項対立の主題に関する研究がほとんどであり、この作品を、ボードレールの美学・詩作理念の転回点という視点から捉えたものは、見あたらないように思われる。~
 しかしながら、このテクストを語りのレベルで読み直したとき、興味深い事態が浮かび上がる。『初版』の詩篇群を支配する声とは異なり、『仮面』の語り手は、決して単一の存在ではない。複数の人物(おそらく二人)が登場し、それぞれが、一つの彫像の周りを巡りながら、対話を交わす。すなわち、この作品は、複数の声の交叉によって成立しているのである。またそれらの視線は、歩行のリズムのように移動する。『仮面』もまた、明らかにボードレール晩年の美学・詩作理念に基づいて制作されているといえるだろう。さらに、この作品が、『美への賛歌』とともに、芸術詩篇の中でも特に「美」を主題とする詩篇群の最後に置かれていることにも注目しておきたい。

ボードレールとリヨン - 山田 兼士(大阪芸術大学

 「パリの詩人」としてあまりに有名なボードレールだが、その生涯の短からぬ年月を過ごした二つの都市についてはこれまで研究者の間でもあまり問題にされてこなかった。晩年の1864年から1866年にかけて住んだブリュッセルと、1832年から36年初めまで中学時代を過ごしたリヨンである。特にリヨンについては、つい最近出たベルナール・プレシの『ボードレールとリヨン』(2004年、Edition de Fallois)以外にほとんど研究書は見当たらない。本研究の目的は、晩年のブリュッセル体験に思春期のリヨン体験を重ねあわせることで、ボードレールの生涯と作品を俯瞰する視点を確立することにある。~
 ボードレールが晩年に体験した、ヨーロッパの中のアメリカ、19世紀の中の20世紀と呼ぶべきベルギーとは、要するに、弱い者、愚かな者、惨めな者の国にほかならない。この認識は詩「ベルギー人と月」に代表される犬のイメージに要約されている。だが、この弱者は同時に、詩人の自己像でもある。なぜなら、惨めで弱く切実な犬こそが、現代における詩人の等身大の姿にほかならないからだ。『パリの憂愁』巻末の散文詩「善良な犬たち」に描かれる、健気で切実で善良な犬のイメージこそが詩人晩年の自己像。そこにはまた、《犬としての現代人》の発見があった。ボードレールのベルギー人に対する憎悪と痛罵は、その極限において一挙に共鳴へと変容を遂げる。罵倒をぶつけた相手こそが実は詩人の自己像にほかならなかったのである。~
 病める現代都市としてのブリュッセルのイメージは、詩人が中学時代を過ごした町リヨンに繋がっている。ボードレールは作品の中でほとんどリヨンに言及していないが、わずかな例外として「哀れなベルギー!」に「どの都会もどの国も固有のにおいを持つといわれる……リヨンは石炭のにおいがする」と書いていて、産業都市としてのブリュッセルとリヨンが30年余の歳月を越えて結び付いているように見える。同じ頃にリヨンを訪れたスタンダールの紀行文などを参照しながら当時のリヨンを描いてみると、後にブリュッセルで体験する産業都市特有の疾病を、詩人がいち早くリヨンで体験していたことがわかる。~
 ボードレール少年がリヨンにやってきたのは、義父オーピックがリヨンにおける労働者の暴動を鎮圧するために赴任したからだ。つまり、中学時代のボードレールは、労働者たちを抑えつける弾圧者の息子としてパリからやってきたわけだ。この点、彼は後の親友ピエール・デュポンと正反対の立場にいたことになる。デュポンはリヨンの貧しい絹織物の労働者の息子として生まれ、苦労を重ねて神学校に行き、独力で音楽を勉強してパリで「歌謡詩人」として成功した、いわばたたきあげの労働者詩人である。二十歳代前半でパリで出会い親密になった二人の間で、ともに中学時代を過ごしたリヨンのことは何度となく話題に上ったことだろう。ボードレールは、1851年に出た『ピエール・デュポンの歌と歌謡』の序文を書いている。ボードレールはさらにもう一つ、1861年にデュポン論を書いていて、二つのデュポン論がまるで『悪の華』を前後から挟み込んでいるかのようだ。この事実は、『悪の華』の後を引き継ぐかたちで開始されたかに見える散文詩集『パリの憂愁』の萌芽が、実は1851年以前まで遡るのではないか、との仮説を促す。ボードレールは『悪の華』以前においてすでに『パリの憂愁』への志向を持っていた、と。言い換えれば、「芸術至上主義」的な美の追求ではなく「民衆派」的な正義と真実の詩への志向が、ピエール・デュポンとの交流の中ですでに芽生えていたのではないか、ということだ。~
 ランボーから「あまりにも芸術家すぎる」と批判されたボードレールが、実は民衆のポエジーを強く意識した作品を書いていたことは特に重要だ。具体例として、仮りに「貧民三部作」と名付けられる散文詩、すなわち「貧者の玩具」「貧者の眼」「貧民を殴り倒そう!」がある。これらの作品を晩年における実験としてではなく、思春期から培ってきた思想の達成として読み直さなければならない。1840年代に共和主義者、社会主義者であったボードレールの政治思想の萌芽は、すでに30年代のリヨン時代にまで遡ることができる。高踏派との葛藤の中で「芸術派」を体験する50年代を経て、60年代に再び民衆へと回帰してくる。これがボードレールの全生涯の大きなサイクルだ。「貧民を殴り倒そう!」という過激なアジテーションの中にこそ、詩人の民衆愛は潜んでいた。少年期のリヨン体験と最晩年のブリュッセル体験をつなぐこうしたモチーフの検討が、真に「現代的」と呼びうる詩人像を確立するはずである。