第23回ボードレール研究会

司会者報告 - 北村 卓 (大阪大学)

 第23回ボードレール研究会は、2005年12月3日 (土) 2時より、大阪大学言語文化研究科にて開催された。参加者は12名。今回は東京から国際基督教大学の岩切正一郎氏に発表をお願いした。関西以外の地域からの参加は、ボードレール研究会としては初めてである。お忙しい中にもかかわらず、快く承諾していただいた岩切氏に深く感謝したい。
 さて最初の発表は、岩切正一郎氏による「『悪の華』における所有の問題」。岩切氏は、ボードレール詩学における他者 (女性) を理解するための言語使用という観点から、ロマン派の詩および19世紀から20世紀前半にかけてのレアリスム小説を視野に収めつつ、「私」という登場人物が他者のことばを捉えるにあたってどのような変化が生じているのかを、「病気のミューズ」「死の舞踏」「告白」「イツモコノママ」「仮面」といった『悪の華』の詩篇群の分析から、さらに散文詩「窓」と「ビストゥリ嬢」へと射程を拡げ、綿密な検討を加えられた。いわば詩のナラトロジーともいうべき岩切氏の斬新な手法は、ボードレールにおける「他者」の問題について新たな側面を照射するきわめて刺激的なものといえるだろう。
 続いて、山田兼士氏が、2005年の4月に砂子屋書房から出版された著書『ボードレール詩学』について、その内容と本書の出版の経緯などについて発表された。本書は、1991年に刊行された『ボードレール « パリの憂愁 » 論』以後の論考に加筆訂正を加え、それを一つにまとめた集成であるが、第一章「ボードレール (から) の越境 ― 詩人論的考察、第二章「絵も歌も小説も ― 比較芸術的考察」、第三章「ボードレールからコクトーへ ― 鏡像/彫像/映像の詩学」の三部からなっており、構成にも十分な配慮がなされている。『悪の華』から『パリの憂愁』へを一つの軸として、その周囲に展開するさまざまな魅力ある主題が鏤められており、読み応えのある一冊となっている。その論考のほとんどは、この研究会で発表されたものであり、その意味で本書はボードレール研究会の一つの成果といえるかもしれない。本書の誕生を心から祝福したい。
 それぞれの発表の後には、活発な議論が交わされた。またその議論は、一足早い忘年会の夕べへと引き継がれた。

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発表要旨

悪の華』におけることばの所有 - 岩切 正一郎 (国際基督教大学)

 詩における他者理解 (発表ではおもに愛する女を対象とする) のための言語使用はどのようになされているか、と いう観点からボードレール詩学の特徴を考察するのが、 発表の目的であった。~
 19世紀から20世紀前半にかけて、レアリスム小説においては、バルザック的全知からプルーストセリーヌの主観的ヴィジョンまで、さまざまな他者理解の開発がある。多く「私」を語り手とする詩は、それとの対比では、プルースト的とも言えるものだ。「私」が「君」に充当する解釈の仕方が、ボードレール詩学のなかで変化してゆく過程を検証し、ボードレールの詩世界を構成するディアレクティクを明るみに出そうと試みた。~
 『悪の華』のなかで、「私」の愛する「君」が、みずからの考えを語ることはないと言っていい。「病気のミューズ」 では、「どうしたの」と問われる「君」からの返答の発話はなく、彼女は「私」の詩的ヴィジョン=解釈をもりこむ器でしかない。「死の舞踏」の骸骨である「君」は、発話しているように見えるが、その発話内容は「私」が言わせているものだ。「告白」では、「君」の発する非言語的音のなかに、「私」が、言語化される内面の思考を聞き取っていて、かならずしも「君」がしゃべっているわけではない。「イツモコノママ」では、相手は質問をするだけで、「私」は、黙っていてくれと命令する。このように、ことばの所有は「私」によってなされている。~
 「イツモコノママ」を、文学史的コンテクストに置き直してみよう。ロマン派の詩では、女性の声は、音楽的な優しさであることが求められていた。それはフロベールにまで継承されている。ところが、ボードレールの詩世界では、音楽的な声が積極的な魅力となることはない。むしろ、亀裂のはいった音が詩的価値を持つ。ボードレールがフランス詩のなかに新しく持ち込んだのは、亀裂のはいった声の魅力、自然美と同化することで発話を逆にうばわれてしまう女性に、破壊された人生を語り得る声を回復させることだと言えよう。しかし、その発話は、「私」が簒奪してしまう。~
 女性に持たされていた音楽性は猫に託される。~
 では、語らない「君」をどのように理解するのだろうか。「病気のミューズ」の対抗ヴァージョンとして、「仮面」がある。涙の大河が相手 (彫像) から流れ込んでくるのだ。苦悩の直感的理解である。バルザック的な、見抜くことの出来る人にだけ許された理解である。語り手は、ボードレールの詩に頻出する「私だけは知っている」という位置にいる。~
 ここで、レアリスム小説で浮上してくる問題とおなじ性質の問題化が起こる。散文詩「窓」がそれを端的に示している。「伝説」は「私」の語りで保証されるが、「物語・歴史」は相手の語る/相手に帰せられる真実を必要とするのだ。このとき、伝説の真実性を確証させるのは、テクスト空間 (ボードレール的世界) 全体によって作り出され、読者に認証され共有されている、苦悩の性質そのものである。~
 この逆の場合が、散文詩「ビストゥリ嬢」で、彼女は、自分のファンタスムを、「私」という男に充当し続ける。彼女は、男が医者かどうかを見抜くにあたって « Oh ! je ne m’y trompe guère » という。このときの語り手の当惑が、ボードレールの詩世界の女に所有されたとき、彼女は「どちらが本当か」のベネディクタとなるだろう。

ボードレール詩学』について - 山田 兼士(大阪芸術大学

 2005年9月に刊行した拙著『ボードレール詩学』(砂子屋書房) の紹介。本書は、『ボードレール « パリの憂愁 » 論』(砂子屋書房、1991年)、『歌う!ボードレール』(同朋舎、1996年) に続く、自身三冊目のボードレール論。章節 (太字部分) ごとに初出時の題と掲載誌をあげておく。~
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序章『悪の華』を有罪にしたパリ~

* 詩集『悪の華』を有罪にしたパリ,「鳩よ!」(ボードレール特集号)マガジンハウス社,1991年1月1日

第1章 ボードレール (から) の越境 ― 詩人論的考察
第1節『悪の華』からの越境 夜のパリから昼のパリへ
* 『悪の華』からの越境 ―「夜のパリ」から「昼のパリ」へ,「河南論集」5号,大阪芸術大学文芸学科研究室,1999年12月25日

第2節『パリの憂愁』の女性像 ― ドロテ、ビストゥリ、そして母たち
* 『パリの憂愁』の女性像 ― ドロテ、ビストゥリ、そして母たち,「河南論集」6号,大阪芸術大学文芸学科研究室,2001年3月26日

第3節「世界の外」のボードレールブリュッセルからリヨンへ
* 「世界の外」のボードレールブリュッセル、リヨン,「都市文芸の東西比較」大阪市立大学大学院文学研究科プロジェクト研究,2005年3月20日

第2章 絵も歌も小説も ― 比較芸術的考察
第1節 ボードレールと丸亀美術館のコロー « 憂愁 » の絵画について
ボードレールと丸亀美術館のコロー ―「憂愁」理念のさらなる理解のために,「藝術」22号,大阪芸術大学,2000年11月21日

第2節 二つのデュポン論 ― 詩と歌謡
* 二つのデュポン論 ―『悪の華』以前/以後のボードレール,「年報フランス研究」30号,関西学院大学仏文研究室,1996年12月25日

第3節 散文詩ポリフォニー ― 現代小説の方へ
散文詩ポリフォニーボードレール分身の術,「藝術」14号,大阪芸術大学,1991年12月1日

第3章 ボードレールからコクトーへ ― 鏡像/彫像/映像の詩学
ボードレールからコクトーへ ― 鏡像/彫像/映像の詩学をめぐる一考察,「河南論集」2号,大阪芸術大学文芸学科研究室,1995年12月31日

 前著『ボードレール « パリの憂愁 » 論』以後14年ほどの間に書いてきた論考に必要な加筆訂正を施した上で、全体の組立てを考えて三章構成とした。その多くは「ボードレール研究会」にて口頭発表したものが元になっている。前著が私にとって詩学原論とでも呼ぶべき書であったのに対して、本書はその応用編、あるいは実践編といった趣。そのため、前著との関連を分かりやすくするために必要な「注」を多めに付し、更に必要に応じて前著の論旨を要約しつつ論述を進めている。~
 近年の私の興味は、相変わらず「ボードレールの現代性」に固執しつつも、より身近な「私たちの現代詩」の方へと重心を移動しつつある。具体的に言えば、フランスの二十世紀詩と日本の現代詩ということ。ボードレールからロートレアモンヴェルレーヌコクトーを経てシュルレアリスムまで、という「フランス詩サイクル」については月刊「詩学」誌上で「フランス詩を読む ― ボードレールからシュルレアリスムまで」と題して連載した (全36回)。萩原朔太郎から宮沢賢治中原中也小野十三郎を経て谷川俊太郎まで、という「日本詩サイクル」についても少しずつ論考を重ねつつある(『小野十三郎論』は2004年、砂子屋書房刊、『朔太郎・賢治・中也』は思潮社より近刊予定、『谷川俊太郎詩学』は「別冊・詩の発見」に連載中)。いずれの場合にも、決定的出発点としての『パリの憂愁』の重要性は揺るぎそうにない。文学のみならず美術、音楽、映画といった諸芸術の「現在」を考える上で「ボードレール詩学」にこだわり続けることは、どうやら私のライフワークということになりそうだ。