第22回ボードレール研究会

司会者報告 - 山田 兼士 (大阪芸術大学)

 第22回ボードレール研究会は、2005年7月30日、関西大学で行われました。参加者は12名。発表者は、当研究会では初めての発表となる和田ゆりえさんと、今回で3回目の秋吉孝浩さん。
 和田ゆりえさんの発表「バタイユボードレール − 詩への憎しみ」は、サルトルの「ボードレール論」への反論として書かれたと推察されるバタイユの論考「Baudelaire mis à nu 赤裸のボードレール」(1947年) を中心に、「悪」と「詩」のテーマを掘り下げようという試み。「詩の本質としての悪」というモチーフをボードレール作品に読み取ったバタイユが「有益なもの」を「善」とするサルトルを否定する意図をもって「悪」の哲学を称揚した経緯を論じた後に、バタイユ自身の詩作品をボードレールの詩「憂愁 Spleen」(『悪の華』第2版中78番目) と比較検討して、「死を媒介とする世界との交感」を両作品のうちに読み取っていく、という展開は非常にスリリングで刺激的なものでした。小説家でもある和田さんらしく、精妙なプロットを感じさせる発表といえるでしょう。質疑応答では、「憎しみ」という主題の確認や、両作品に見られる「旗」の意義についての討議がなされました。共に垂直軸を示す2本の旗が、一方では上から下へ、他方では下から上へ、という正反対のベクトルをもっていることの意味など、さらに興味深い展開がありそうです。
 次に、秋吉孝浩さんの「美術批評家としてのゴーチエ −歴史画をめぐる言説」。詩人・作家として高名なゴーチエは多くの美術批評をも残していますが、ボードレールの美術批評と比較して、従来あまり高く評価されてきませんでした。秋吉さんは、その主な理由を (1) ゴーチエの評価基準が甘すぎること (2) スペイン趣味による偏向が見られること、と要約した上で、歴史画論を中心に据えて、その再評価を試みました。ジェロームやメソニエなどの絵画作品を具体的に検討しつつ、ゴーチエの美術批評の方法をフォルムへの志向に結び付ける論点などは大変魅力的なもので、できればこの点をゴーチエの詩作品への評価に重ねて論じられないかとの期待を抱かせました。質疑応答では、一般に「折衷主義」的と評されるゴーチエの美術批評の独自性がどのあたりにあるか、などの議論が行われました。私個人としては、非常に手堅く専門性の高い発表であるだけに、この研究をゴーチエの文学作品研究に結び付けると共に、ボードレールとのより全面的な比較検討に発展させてほしいと考えています。

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第22回研究発表要旨

美術批評家としてのゴーティエ ― 歴史画をめぐる言説 - 秋吉 孝浩 (大阪市立大学非常勤講師)

同時代のボードレールの美術批評に比べると、ゴーティエの美術批評は研究対象となることが少なかった。しかしゴーティエは、当時の美術界を誰よりも明晰に見据えていた批評家であったといえなくはないのである。そして、その明晰性は、彼のフォルムへの偏愛とからみあって独自のものとなっている。歴史画に関する彼の言説をみていくことで、その一端を示すことがこの発表の目的である。
「歴史画」とは、ゴーティエにとって、多くの同時代の人々がイメージしていたのと同様、ダヴィッドを代表とする帝政期、王政復古期の画家たちが制作した、ホメロス的な神話や聖書に書かれた逸話などを取り上げた、ある程度の大きさをもった絵のことであった。そして、こうした主題の正統性は、1836年においては、「芸術は過去のポエジーの結晶作用でしかない」という主張と結びつき、「模倣」と「ファンテジー」という芸術の二要素が、「ファンテジーはあらゆる時代に属している」が、「模倣は、すでに起こった出来事や、そのフォルムが固定した事実や対象のためにしかあり得ない」というように説明される。
 しかし、ゴーティエは、ボードレールとの影響関係のみられる1845年から1847年の現代生活の英雄性に関する議論を経て (Stéphane Guéganの諸論考参照)、実際の絵画制作の変貌を前に、歴史画を新たな方向から評価していくことになる。
 まず1849年には、アンティーニャの « 寡婦 » を論じて、労働者である夫を亡くした貧しい妻の姿に、アンドロマクの悲劇に取って代わり得るドラマを認め、1851年のクールベの « オルナンの埋葬 » に関しても、同じくアンドロマクを例に引きながら、現代の無名の人物から歴史画に描かれるに相応しい悲劇性や「魅力的な人間の側面」を引き出すことができると主張している。ただし、そこには、1855年にイギリス絵画を論じる際に述べられているように、「構成の英雄的な表現」が必要とされる。
 こうした点が極端に突きつめられていくのが、ボードレール同様、絵画において従来のジャンルが行き詰まりをみせているという認識をゴーティエ自身せざるを得ない1859年になされた、ジェロームに対する評価である。
 « カエサル » という、暗殺された直後のカエサルの死体のみを大きく描いたこの作品を、ボードレールは、見る者の記憶を刺激する点で評価する。それに対し、ゴーティエは、「拡大し、理想化し、英雄的な状態に変貌させた、ある断片にすぎない」とする。なぜならば、「ポエムは記憶の妨げとなってはならない」からである。ここには、ジョルジュ・プーレが、黒い眼をした金髪の女について、ネルヴァルとの比較において語った、ゴーティエのもつ傾向、「その人物像を過度に明確化し、過度に確定しようとするために、それが凝固し、石化し、その活力と独自性を失う」というゴーティエの言説の特徴が明らかに見て取れる。しかしながら、メソニエの1851年の問題作 « バリケード » に関して、「あの本物の真実の一見本」という矛盾した表現を取ってしまうゴーティエは、ある意味において、時代のイデオロギーを逃れる明晰さをもっていたのではないか?「真実」がイデオロギーであるとすれば、ゴーティエのフォルムに対する執拗な問いかけは、それを突き崩すものとなる可能性をもつからである。当時問題となっていたレアリスムの問題も含めて、ゴーティエの美術批評のもつこうした意義を考察していくことが今後の課題となる。

バタイユボードレール ― 詩への憎しみ - 和田 ゆりえ (関西大学非常勤講師)

 ジョルジュ・バタイユ (1897-1962) は 1947年、雑誌Critiqueの8-9号に « Beaudelaire mis à nu » と題したボードレール論を発表、1957年に刊行した評論集La Littérature et le malに再録している。これはもともとサルトルが1946年に発表したボードレール論を受けて書かれたものであり、ボードレールを子供時代へのノスタルジーにとりつかれた不毛な反抗者としてとらえ、「悪」を個人の問題に矮小化するサルトルに対し、バタイユはあくまで「悪」を詩の本質に位置づけた上で反論を試みている。バタイユにとって詩とは、サルトルの代表するような、未来に現在を従属させる「投企」の地平の対極に位置するもの、主体と客体の一体化のうちに身を焼き尽くす、彼のいわゆる「内的体験」の言語による表現形式にほかならない。だが「体験」は本来紙の上に固定することのできないものであり、書かれてしまった詩は結果として詩の反対物に帰着する。こうした「不可能性」ゆえに、ボードレールの生涯は苦悶に満ちたものにならざるをえなかったとバタイユは結論づけている。ボードレールこそは、バタイユにとって詩の不可能性をもっとも遠い地点にまで押し進めた作家であった。
 バタイユ自身も詩を書き、44年にArchangélique、45年にはOrestieという二冊の詩集を出版している。後者はその後、1950年に出版した小説La Haine de la poésie (のちに改訂してL’Impossibleと改題) に組みこまれた。そのなかで彼は、「詩への憎しみの感情のなかで全うする詩の意味を究めた」詩人として暗にボードレールを称え、「詩の非・意味にまで自らを高めない詩は虚しい詩、きれいごとの詩にすぎない」と述べている。そこには形式の洗練へと堕していったブルトンはじめシュルレアリストたちへの反感が透けて見える。だがいわゆる「美しい詩」を断固として拒否し、つねに限界線のかなたに逃れ去っていく「体験」を、そのつど意味の地平へとつなぎとめようと苦闘しつづける結果、彼の書く詩は一種の反復にならざるをえず、つねにおなじイメージ、おなじ運動へとほとんど強迫的な執拗さをともなって回帰していく。本発表では、『無神学大全』第3巻、Sur Nitzsche (1945) 第3部の日記中に挿入されている無題の詩篇を取りあげ、それが『悪の華』78 « Spleen » のイメージを色濃く反映しつつ、バタイユ独自の体験の表現へと変奏されていくさまを跡づける試みをおこなった。
 « Spleen » 78では、頭上に蓋のように重くのしかかる空と、« nos cerveaux »、« mon crâne » の語で表わされるボードレール自身の内面が、マクロコスモスとミクロコスモスのように、おなじ中心をもつふたつのドームとなって重なりあう構造が見てとれる。孤独な個人と宇宙全体との聖なる交流を絶対的なテーマとしていたバタイユが、この詩に強く引きつけられたことは想像にかたくない。ただしボードレールにおいてふたつのコスモスは、天井の腐った土牢としての大地といい、そこに押しこめられている「わたし」といい、いずれも徹底して内部に閉ざされている。その住人は蝙蝠や蜘蛛といった狭い場所を逃げまどう生きものであり、鐘の音は彼方に消えていくのではなく、ドームの中を反響しておどろおどろしい唸りをあげる。そして詩の最後に両者を連結する唯一のものとして、「わたし」の頭蓋に « drapeau noir » が垂直に立てられる。
 一方バタイユの詩は、第1節に « plus d’espoir » とあるように、« Spleen » 78 の最後に語られている絶望の境地から出発する。また第2節の « en mon coeur se cache une souris morte » は、あきらかに « Spleen » 中の « cachot »、« chauve-souris » と響きあっている。だがバタイユの「わたし」は一方的に押さえつけられ、閉じこめられているのではなく、第2連では一転して « j’envahis le ciel » と、能動的な主体となって空へと攻め入っていく。「わたし」の肉体はミクロコスモスとマクロコスモスをつなぐ交流の通路となるが、この交流は死を媒介としてしか成就しえず、« une étoile tombe noire / dans mon squelette debout » とあるように、「わたし」は「骸骨」と化さざるをえない。さらに第3連では « où est la terre où le ciel / et le ciel égaré (…) / J’égare le monde et je meurs / je l’oublie et je l’enterre / dans la tombe de mes os. » と、空と大地、あるいは外界と「わたし」の境界は流動化し、一種の恍惚状態のうちに交流は激化する。
 詩は、« ô transparence des os / mon coeur ivre de soleil / est la hampe de la nuit. » で終わる。« Spleen » では「わたし」の敗北のしるしとして突き立てられた黒旗は、ここでは空に向けて昂然と屹立する世界の中心軸としての « hampe de la nuit (夜の旗竿) » へと変貌を遂げている。それは同時に、「体験」によって焼き尽くされ、生きながら骨となって直立するバタイユの身体そのものにほかならない。