第21回ボードレール研究会

司会者報告 - 坂巻 康司 (大阪産業大学非常勤講師)

春にしてはまだ肌寒さの感じられた3月26日の土曜日、関西学院大学に15名ほどの参加者を得て、第21回ボードレール研究会が開かれました。~
 最初の発表はオリヴィエ・ビルマン氏による « Une lecture de Mémoire de Arthur Rimbaud » でした。これは、ビルマン氏が以前から親しんでおられるドゥルーズバディウといった現代の哲学者のテクストを活用しつつ、ランボーの一詩篇を読み直そうという意欲的な試みでした。ランボーのテクストが現代哲学の最前線の思想といかに反響し合うのかということを明らかにしようとするこうした試みは、学会等ではなかなか出来ないものなので、大変興味深く感じられました。確かにドゥルーズ等の20世紀の中心的な思想家は、その思考の頂点 − 記憶、意識、持続などを論じる部分 − でランボーに言及することがしばしばあり、19世紀から20世紀に亙る思想の流れを見極める上で、この指摘は極めて重要なことと思われました。また、単に現代思想を援用することによって作品を解読するのではなく、テクストを一語一語丹念に読み解く作業を疎かにせず、誠実に作品と向き合おうとされるビルマン氏の姿勢はとても印象に残りました。ただ、惜しむらくは、読み上げられる哲学のテクストが必ずしも平易なものではなかったので、出来ればこれらのテクストのコピーも配っていただければ全体の理解も容易になったかと思われます。~
 二つ目の発表は寺本成彦氏による « Perversion et / comme poésie −le cas Lautréamont-Ducasse−» でした。寺本氏は博士論文提出の前後から、一貫してロートレアモンのテクストにおける「書き換え」の問題を追及しており、その持続力で我々を圧倒して来られました。今回はより一層、テクストの内部に踏み込み、その記述の問題点を本格的に探求されているという印象を持ちました。登場人物の「身体の壊乱」がエクリチュール、及び読者の「精神の壊乱」へと結びつく点、「表象不可能性」の問題への言及、そして、科学的語彙と文彩の特異な使用法が新たなテクストの可能性を産み出した点など、様々なことが指摘されました。これらは、それぞれ現代の諸問題に連なる重要な指摘であり、ロートレアモンのテクストの奥深さを改めて感じさせられました。問題はこうしたことが果たして作者によって意識的に (あるいは意図的に) なされたものなのかということであり、発表後もその点に関する質疑応答が交わされました。また、テクストの歴史的背景との関わりについての問いかけもなされました。~
 今回のお二方の発表はどちらもボードレールの周辺領域のものでしたが、今後、更なる発展を予感させるものであり、ボードレール研究にも寄与することの大きい内容であったと思われます。

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発表要旨

Le poète-architecte (Une lecture de Mémoire de Rimbaud) - Olivier Birmann(Université Kwansei Gakuin) [#m51248b8]

Retour de Rimbaud dans la maison familiale, après les premiers mois tumultueux passés avec Verlaine et en attendant que le « pitoyable frère » le rappelle. On comprend que c’était pour le poète, alors âgé de dix-sept ans et qui avait déjà derrière lui des poèmes comme Les Poètes de sept ans, Le Bateau ivre, etc., une épreuve qui exigeait de sa part, comme il le rappelle lui-même dans Alchimie du verbe, tous « les sophismes de la folie, – la folie qu’on enferme, – » tandis qu’autour de lui rôdaient « les rêves les plus tristes ». Mais c’est là qu’opère justement cette alchimie : de la maison familiale avec les figures de la mère, des sœurs, du père absent, avec ses paysages et ses rivières ardennaises, il va, selon l’expression d’un poème à venir (Génie), construire « une maison ouverte ». Et cela en faisant passer les figures de sa « famille maudite » – comme celles que l’on trouve chez Poe, que Rimbaud avait alors en mémoire (une autre version du poème, retrouvée en 2004, a pour titre, on le sait, « d’Edgar Poe / Famille maudite ») – dans des zones d’indiscernabilité où figures humaines et figures du paysage – rivières, saules, oiseaux, soleil – deviennent indéterminées et se dégagent du vécu en un délié musical qui n’est pas sans faire sentir l’influence de Verlaine.
Il y a une minute du monde – ici, un suspens entre deux fuites – qui passe et toute la question est de la sauver en devenant cette minute-même. De la faire tenir debout. De la rendre objective. Le poète-architecte prend son matériau – mots, syntaxe qu’il continue à se forger – et tout en suivant les déformations de la fiction, les fait passer dans des affects liés aux couples maudits qui l’entourent ou qu’il contribue à former lui-même, ainsi que dans des sensations, par lesquelles le je s’ouvre à cet autre que sont les figures du paysage tandis que celles-ci – rivière, ombre, colline, arche – adviennent à la présence, répondant ainsi au désir le plus profond de la poésie et, dirait Rilke, du monde lui-même.~
Mais les forces à l’œuvre dans la construction de la maison-paysage, avec ses lits, ses rideaux, ses carreaux, ses meubles sont contradictoires. Il y a celles qui tirent vers le haut, qui font entrer les rêves les plus tristes dans l’épiphanie de la blancheur, quand « Les choses chantent dans la tête / Alors que la mémoire est absente » (Verlaine). Celles qui tirent à l’horizontale en une pesante et sompteuse donation terrestre, et qui rencontrent le travail humain et les chantiers. Celles qui tirent vers le bas, vers la cendre, la boue. ~
Entre donc épiphanie et résilation de cette épiphanie. Entre mouvement révolté, sexuellement déchiré et mouvement dans le délié souverain de l’expression « égarée au possible ».~
Notre lecture est une réflexion qui s’appuie pour l’essentiel sur des notions développées par Gilles Deleuze dans le chapitre « Percept, affect et concept » de Qu’est-ce que la philosophie? Elle doit aussi beaucoup à Alain Badiou et à Chritian Prigent.

Perversion と (しての) poésie − ロートレアモン= デュカスの場合 − 寺本 成彦 (神戸大学非常勤講師)

『マルドロールの歌』における「性的倒錯」の形象は、「悪」の領域における < 欲望する身体 > という重要な問題系を構成する。また作品の語り手と聞き手、書き手と読み手との関係に緊密に関連しながら、詩作品を書く行為としてのエクリチュールの場面を根底から規定している。そもそも「性的倒錯」は、精神および身体の「奇形性」についての明晰な表現を通して、表象し得ない事象としての「おぞましさ」を詩表現の領域に取りこもうとするデュカスの果敢な企てに、必要不可欠であるようにも思われる。さらには、当時の最先端である科学的知・解剖学的知に属する科学的専門用語をあえて詩の言葉として頻繁に用いることで、「諸感覚の倒錯」perversion des sens にとどまらず、「意味の倒錯」perversion du sens にまで射程を広げていたデュカス=ロートレアモンの詩法上の中心問題を明らかにできるだろう。~
 まず、「子供」enfantあるいは「青年」adolescentに対する偏執は、語り手 (ロートレアモン / マルドロール) のサド・マゾシスムを前景化する。たとえば「第1歌」第6ストロフに見られる、幼児の柔らかな胸を爪で引き裂いて血をすすりながら犠牲者の苦しむ様子を堪能する場面は、身体の変容・奇形を言葉がいかに表象しうるのかという問題を明らかにしている。瀕死の子供自身に語り手への報復を唆すくだりに見られる「子供」および語り手の身体の変形に関するごく即物的で詳細な描写は、後から頻出する身体組織の造形性およびそれに関する解剖学的な知見へのロートレアモン=デュカスの志向性を先取りしている。また、語り手のサディックな行為により、「若者 / 子供」はサド=マゾシスムにおける加虐者の位置へとずれゆき、精神的な変容をも蒙ることになる。こうして作品が想定する「若者」=「読者」は、作中で表象される性的倒錯行為を読むことで、身体・精神に深甚な影響を刻み付けられるだろう。~
 次に、書くことの論理と倫理の極北に近づいているとも見なされる「第3歌」第2ストロフでは、あどけない少女がマルドロールと彼の飼い犬であるブルドッグにより viol を受けた後、瀕死の身体をさらに傷つけられていく様子が詳細に語られる。その解剖学的とも言うべき常軌を逸したサディックな遺体毀損は、作者の身体 (内部) への強烈で具体的な関心に基づいている。日常的な視線および通常の文学表現からは隠蔽されている身体内部の解剖学的メカニスムの一端を文学表現の場に「引きずり出」し、言葉によって形象化しようとする試みは、< 想像し得ないもの >・< 表象され得ないもの > に明確な形象を与えようとする試み、抑圧された欲望を言語化しようとする企てに他ならない。~
 この同じ試みは、当時もっとも忌み嫌われた性的倒錯である「男色」を主題化する「第5歌」第5ストロフでも確認される。「男色」および「男色家娼夫」を逆説的に賛美するくだりには、スティーヴ・マーフィーも指摘するように、強烈なサティリックがこめられている。当時の法医学界の権威であったタルデューの著書『二つの売春』中、男色家の身体特徴を事細かに描写する一節で用いられる「肛門の漏斗状変形」という表現をほぼ字義通り採用する詩人は、ごく科学的であると思われる著作に忍び込んでいる道徳的価値判断、また同時代のフランス社会がこの呪われた性倒錯に対して抱いていた不合理な恐怖をこそ問題化する。倒錯者の堕落した内面を外在化し、< スティグマ > として明確に記述するために用いられる解剖学用語、また形態・奇形性を客観的に描写するための幾何学用語が潜在的に備える新たな表現能力に着目したロートレアモンは、< 表象し得ないもの > がそこで明確な輪郭と実態を伴って表象される事実を敏感に察知していたと思われる。精神的な monstruositéと身体的な monstruosité との相関関係を立証したという法医学的言説を逆手に取り、その二つの「奇形性」を表象する言葉自体のなかにあらたな未曾有の「美」を創出しようとするこの試みは、直喩「…のように美しい」における比較項の奇形的増殖へとつながるものではなかろうか。