第20回ボードレール研究会

司会者報告 - 寺本 成彦(神戸大学非常勤講師)

 年の瀬も押し迫った 2004 年12月27日(月)、大阪文学学校において開催されたボードレール研究会は参加者 8 名と、やや小ぢんまりとした会になりました。発表者の都合で開始時間が遅れ、午後 3 時前に始まりましたが、2つの発表と活発な質疑応答の時間を入れても、幸い予定時間内に充分納まりました。~
 一人目の発表は、田中直紀氏「ランボーの “ 呪われ人” 像」。ランボーの初期詩篇・「見者の手紙」・『地獄の季節』に見られる「呪われ人」(maudit) 像の変遷と展開を跡付け、詩人の営為を宗教的および文化的文脈の中に再度捉え直しつつ、やがて来る“詩作の廃棄”というドラマを、「サタンとの訣別」に由来する必然的帰結として位置付けようとする試みでした。まず初期韻文詩二編 (1871以前) では、ランボーがその一人として「呪われ人たち」を主題化する点、またソクラテス、キリストなどと対置させられることによる大文字の「呪われ人」= サタンなる等式が見られる点を指摘されました。ついで「見者の手紙」(1871) においては、前出の等式「呪われ人」= サタンが潜在的であることを確認した後、『地獄の季節』(1873) に頻出する、「キリスト教思想に捕らわれた“ 呪われ人”」像を反宗教的な文脈の中で分析し、位置付けられました。発表後、参加者から草稿の扱い方についての注意があった他、ランボー作品においてはボードレールと異なり、「サタン」・「デモン」の二つの名称が並存している点が意義深いという指摘がありました。また、「ランボーは手近に見つかるイマージュを、手当たり次第にコラージュしつつ詩作していた」という見解を持つ参加者からは、宗教的な文脈に厳密に引きつけてランボーを解釈する有効性に対する疑義が提出されました。ただ司会者としては、詩人が当時いかに若年であったにせよ、19世紀の平均的なリセの生徒と同じく(あるいはそれ以上に)宗教的文脈を知悉し、そこからの脱文脈化と自作への再文脈化をほどこしながら独自のイマージュを紡ぎ上げていたのではと考えます。蛇足ながら付け加えますと、配布された発表資料のページ付の欠落・発表中話題となっている該当資料への指示の欠如といった発表の形式面での基本的不備があり、参加者の理解の妨げとなりかねなかったことを残念に思います。~
 2人目は、山田兼士氏「フランス詩の“ 対訳 ”について」。氏が10年来手がけているフランス歌曲の翻訳に引き続き、月刊誌『詩学』に連載中の「フランス詩を読む ― ボードレールからシュルレアリスムまで ―」で試みられた「対訳」について紹介されました。明治以来連綿と続けられてきた仏語詩の日本語への移し替えの際、言語 langue の違いゆえに必然的に起こってきた意味偏重・構文の改変・音韻の消去・詩行の長さの不均衡といった事態をできるだけ回避しながら、現代日本の詩の作者に創作上のヒントとなる翻訳詩を < 日本語の現代詩 > として練り上げるという、楽しい難事業についての「現場報告」でした。とりわけ、入稿直後であったヴィクトル・ユゴー「開いた窓」を例にとり、イメージの流れ・音声面の推敲にいかに腐心されたのか、そしてそれが「原作者の作詩上の苦労を追体験する」という翻訳者の“ デオントロジー ”(と司会者には理解されました) の一端に他ならない点を示されました。日本的抒情の発生装置である「七五調」を解体しつつ新たな音数律を獲得する可能性、既存の日本作家・詩人をパスティッシュしながら翻訳文体を設定するという遊戯的な面、原詩の頭韻を訳詩でも再現する試みなど、翻訳・詩作の現場を実際に覗きこんでいるような印象を強く受けました。ただし、いかなる基準で訳詩に句読点を省略するか否かの基準、あるいはマラルメ「海の微風」の人称を「ぼく」から「私」になぜシフトさせる理由が、発表者の解説にもかかわらず、やや不明確に感じられました。ともあれ、翻訳作業の紹介にとどまらず、外国語の詩作品をいかに日本語に移すべきか・移しうるかについての有益で実践的な提言に満ちた、興味深い発表であったと思います。~
 発表終了後、大阪文学学校の“ 付属施設 ”とでも称すべき居酒屋で忘年会も兼ねて一同談論風発し、和やかにその日の会合が終わったのでした。

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第20回研究発表要旨

ランボーの「呪われ人」像 - 田中 直紀(大阪産業大学非常勤講師)

 古代の四性論で不運をもたらす土星のもとに生まれる憂鬱質は、陰鬱で活気なく役立たずな性質であるとされたが、ルネサンス期の新プラトン派において、時に目覚しい創造性を発揮するとの正の評価が加えられ、やがてロマン派的な芸術家像の典型的属性となる。ボードレールヴェルレーヌは憂鬱質の詩人をみずからもって任じていた。のちにヴェルレーヌは自作やランボーの作品をふくめたアンソロジーを『呪われた詩人たち』(1883) と題するが、「呪われた」者という観念は憂鬱質の者の類縁的な観念と言えよう。~
 ランボーの唯一の文学的マニフェスト「見者書簡」(1871)では自らを予言者的救世主的な詩人となす構想が語られるが、ボードレールヴェルレーヌを先例とし、プロメテススに例えられる見者詩人は、また「呪われ人」にして「至上の知者」であると説名される。ところで同時期の韻文詩「パリの狂騒、またはパリふたたび大賑わい」では「詩人」は「< 呪われ人 > の叫び」を「歌う」者とし、また「義人」では自身を「苦しむ者・叛逆者」「呪われ人」としている。ここに「呪われ人」の言葉を語ることと「呪われ人」として語ることの連続性が認められる。さらに後者においては「呪われ人」にソクラテスやキリストといった「義人」に対置されていること、「呪われ人」« Maudit » の語にサタンを意味する大文字表記が見られることから、書簡には潜在的なそのサタン的反キリスト教的属性を見ることができる。~
 散文詩『地獄の季節』(1873) はその見者理論を実践するランボーの分身のような詩人を語り手とした自伝的物語である。物語の最終場面を描いたプロローグにおいて、これから読者の目にふれる見者 / 魔術師としての探求がサタンのもとになされたことが示される。本篇では、魔術的な自己変性をもたらす炎を司るのはサタンであり、また語り手のつれあいである「狂気の処女」には彼自身がデモンと見えあるいは「彼のデモンが私にもとりつい」たと感じられる。語り手はキリスト教によらない救済をめざし自らを見者 / 魔術師となそうとしているが、実はそのこと自体がキリスト教的な意識を通してみる限り神への挑戦を意味する。自らの内面化したキリスト教的意識を払拭できない語り手は、自身のこころみをそのように意識せざるをえない。さらにまた、プロメテウスと習合したロマン派的なサタン観は、彼の火の盗みの目的意識には適合していたはずである。よって、福音書における口調の模倣など、語り手によるキリストの模倣は、まさにキリストになりかわろうとするルシファー的意識の発露と見られる。多くの論者は語り手の言動のうちに救世主的な要素とサタン的要素の二面を見るが、自らが救世主的たろうとすること自体がサタン的である、という文化的文脈の存在を忘れてはならないであろう。やがて最終パート「別れ」にいたり、語り手は見者 / 魔術師としての業の放棄を宣言し、ついで先に描かれたプロローグの最終場面でサタンに手切れを要求するが、ここでサタンがとくにデモンと呼ばれるとき、語り手を「呪われ人」としての詩の業にみちびいたダイモンであったことが、逆に言えば自身のダイモンを、その反キリスト教的性質においてサタンに見たてたということが示されているのである。

フランス詩の対訳をめぐって - 山田 兼士(大阪芸術大学

 月刊「詩学」連載中 (2005年3月現在第26回) の「フランス詩を読む ボードレールからシュルレアリスムまで」における「対訳」について、技術的な面を中心に現場報告を行った。詩の翻訳法については上田敏、岩野泡鳴以来、数々の試行錯誤が重ねられてきたが、日本語自体が絶えず変化し続けるものであり、日本における外国語受容の実態も変化し続けるものである限り、決定的方法は存在すべくもない。できる限り近似値的に「正確」な翻訳、というのが訳者にとって唯一の心構えと言うしかない。とはいえ、翻訳者によって様々に工夫を凝らしていることも事実なので、ここで個人的な経験から得た僅かばかりのノウハウを発表することも必ずしも無意味ではないだろう。~
 詩の翻訳の要点とは、まず常識的に見て、(1) 意味内容が正確であること (2) イメージが正確に伝わること (3) 原詩の「しらべ」(音、リズム等) が少なからず伝わること (4)日本語の現代詩として鑑賞に耐えること。以上4点にまとめられるだろう。これらをすべて過不足なく満たすことは非常に困難だが、ある程度バランスの良い翻訳は可能である。そのための方法として私が常に心掛けていることを要約すると、(A) 意味内容は直訳を基本とする。(B)「イメージの文法」を重視し、そのために日本語のあらゆる文体を駆使すること。具体的には、できるだけ一行ごとに原詩と訳詩が対応するように工夫すること。(C) 音声面は絶望に近いが、それでもできる限りの努力をして「しらべ」を再構成すること。例えば、一行あたりの音数を一定にはできないまでも誤差を最小限にすることや、不完全であっても押韻の努力をすること。この点は、原作者の苦労工夫を追体験するためでもある。(D) 日本語の現代詩として鑑賞に耐える訳文を作成するためには常に最新の日本詩に親しんでいなければならないので、詩のシャワーを日頃からふんだんに浴びていること。以上である。いつも困ることだが、(A) を気にするあまり (B) がうまくいかなかったり、(B) を優先すると (C) が犠牲になったり、といったことが頻繁に起こるのである。折り合いをつけるのに相当な時間と労力を要する作業であることは間違いない。~
 一例として、上記連載第19回のシュペルヴィエル作品を次に挙げる。詩集『 Le Forçat innocent 無実の囚人 』より「 Un bœuf gris de la Chine… 中国の灰色の牛が…」。~
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Un bœuf gris de la Chine, 中国の灰色の牛が~
Couché dans son étable, 自分の小屋に寝転んで~
Allonge son échine 背伸びをすると~
Et dans le même instant その同じ瞬間に~
Un bœuf de l’Uruguay ウルグアイの牛が~
Se retourne pour voir 振り返って見る~
Si quelqu’un a bougé. だれか動いたかなと~
Vole sur l’un et l’autre この両者の頭上に~
À travers jour et nuit 昼となく夜となく~
L’oiseau qui fait sans bruit 音もたてずに飛ぶ鳥がいる~
Le tour de la planète 地球をぐるっと回りながら~
Et jamais ne la touche 決して地球に触れもせず~
Et jamais ne s’arrête. 決して止まりもせずに~
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 各行6音節に緩やかな脚韻をもつ原詩を、10音節を中心に7 – 14音節までに収めつつ、ここでは脚韻を犠牲にして(緩やかに脚韻を試みる場合もある)なめらかな日本語を優先している。行ごとの対応にも気を配り、日本語詩としての読みやすさにも留意しているつもりだが、どうだろう。ちなみに、ここでは谷川俊太郎「朝のリレー」の文体を意識して訳してみた。試みに、上記 (1) 〜 (4) の規準に当てはめて5段階で自己評価するなら、(1) 4点 (2) 4点 (3) 3点 (4) 4点。計16点。100点満点に換算すると80点で、これなどはうまくいった例と思っている。こうした規準で少なくとも70点以上の翻訳を提供したいといつも願っている。