第15回ボードレール研究会

今回の研究会は11月16日(土)、大阪日仏センターに場所を借りて開催されました。参加者は17名と盛会でした。

まず北村卓氏が「岩野泡鳴とボードレール」と題して発表されました。シモンズ『表象派の文学運動』の訳者としてわれわれにも馴染みのある名前とはいえ、泡鳴とボードレールとがなぜ、いかにして関わり得るのだろうかという新鮮な驚きは、細やかな手続きを経た論証ののちには、手ごたえのある納得とさらなる好奇心へと変わっていました。当時としては突出した泡鳴のボードレール理解を例を挙げて指摘するだけでなく、泡鳴の実生活と作品とを丹念に追い、個人的な資質および時代的な状況、および文壇における作家の位置など多角的な方向から、泡鳴のボードレール受容を明らかにされました。

シモンズ『表象派の文学運動』の翻訳者でありながら、これまでほとんど指摘されることのなかった泡鳴の、日本のボードレール受容史において果たした役割の重要性を示唆された今回の発表は今後の展開が大いに期待されるだけでなく、「明治・大正期における日本の文壇とボードレール」という北村氏のひとつの大きな研究テーマの核を形づくるようにも思います。多岐にわたる活動をした泡鳴は実生活の破綻がひどく、その研究は敬遠されてきたとさえいえる。死後の評価は概して低く、それゆえ、多くの詩を訳出し、大正・昭和の詩人たちに大きな影響を与えたと考えられる泡鳴について、比較文学の分野ではまだ十分に研究されているとはいえない、という北村氏の発言は自らを鼓舞する決意の言葉として受け止めることができました。その結実が大いに期待されるところです。

発表後、現在でも入手できる泡鳴作品にはどんなものがあるのか?、ゾラの影響は?…など、多くの質問がつぎつぎに出され、泡鳴に対して芽生えたわれわれの関心を証していました。

 次いで森田郁子氏が「アポリネールの『ルー詩篇』について」発表されました。戦争体験によって詩が書けなくなったアポリネールというクリシェを闇雲に受け入れることなく、当時の詩が抱えていた問題のなかでなぜ書けなくなったのか?、その理由を後期詩篇のうちに探ろうとする意欲的な発表でした。森田氏は以前、詩人としての行詰まりを示すという点のみが強調されてきた「盲人」のテーマ系を読み換えることによって、新たな角度からアポリネールの後期作品に光をあてられていたが、今回は「ルー詩篇」に登場する女性の装身具、とりわけ指輪に注目し、詩人の創作方法およびその問題点を明らかにしようとされました。まず「ルー詩篇」には、具体と抽象の往来から最後には抽象へと向かうベクトルが見出されると述べ、具体的な例をあげながら、モチーフを暗示する「包括的単純化」という詩人の手法を分析されました。つぎに円環を形作る三つの「ルー詩篇」:「露営の火」「蠅のうず」「騎士よさらば」において、一人称から三人称へと移行、そしてそれが消失する。いわば物語に「私」が食われ、さらには主人公が、物語を支えるものがついには消えてしまうことを指摘。抽象性と円環性を象徴している指輪、つまり詩がもはや主人公「振られ男」を復活させ得ないのであり、アポリネールは作るべき「fableの種」の形成に失敗する。このことが詩人の書けなくなった理由ではなかったかと結論されました。テクストの構造そのものが必然的に孕んでしまった書くことの不可能性を指摘した刺激的な発表で、今後も森田さんの透徹なまなざしから、さらに興味深いアポリネールの姿が捉えられることが期待できるように思いました。

 研究発表終了後、懇親会に場を移したのちも、和やかな雰囲気のなか、活発な議論が夜遅くまで交わされました。


 ボードレールは、今日に至るまで日本の文学・思想・芸術・批評などの幅広い分野できわめて大きな影響を与え続けてきたが、その最初期、すなわち明治から大正期についていえば、日本の近代化(文学においては新たな言語と主題の獲得)という時代の転換期にあって、その受容は混沌とした様相を呈していた。

 とはいえ、こうした一見捉えがたい状況をもう一度近代日本の黎明期という時代背景の中に据え直してみれば、当時の文学界において、自然主義耽美派の対立構図のもとに、「ボードレール」が一つの記号として流通していた事態が浮かび上がってくる。田山花袋たを中心とする自然主義側からの「病的」「悪魔主義的」「芸術至上主義的」「退廃的」といった皮相的な紋切り型の批判に対し、例えば上田敏は、西欧の最新の文学潮流を踏まえつつ、ボードレールヴェルレーヌ、高等派をへてマラルメへと至る象徴派の系譜の中に位置づけようと試みていた。

 しかしながら、明治末から大正初めにかけて、ボードレールは、こうした記号的解釈から次第に解き放たれ、とりわけ耽美派永井荷風谷崎潤一郎らの文学的思想形成において重要な役割を果たしてゆくことになる。一般に自然主義の側では、ボードレールは相変わらず、批判すべき対象である耽美派の一つの記号として見なされていたが、ここで特筆すべきは、自然主義を代表する作家とされる岩野泡鳴(明治6−大正9)の存在である。

 泡鳴は、アーサー・シモンズ著『表象派の文学運動』の翻訳(大正2)を通してボードレールへの理解を深め、大正4年には、Symons, Nordau, Sturm, Hunekerといった当時日本で入手しうる文献の多くを渉猟し、『悪魔主義の思想と文芸』を上梓する。ここで泡鳴はボードレールの思想を「悪魔主義」と定義するが、そこには批判的な意味合いはまったくない。逆に「膚浅な常識、通俗な感情、並びに平凡な俗美の技巧に対する勝利の凱歌」として積極的な意義を付与するとともに、「ボドレルのこの主義は、思想としては旧世界の生活を一新して、所謂『近代性』発展の道を開拓」したと述べており、当時としてはかなり正当な評価を下している。さらに、大正8年には「一元描写の実際証明」と題された論考において、自らを「小説世界のボドレル」と位置づけるまでに至る。そして田山花袋を、物事の表面しか捉えようとしない「物質的自然主義」「物質的表面描写」として斥け、「内部的自然主義」に基づいた「一元描写」論を展開してゆくのである。

 岩野泡鳴といえば、物議を醸し出した数々の言動や行動もあって、現在でもなかなか評価の定まらない作家であるが、今後ボードレールという一つの鏡を用いて、彼の作品をさらに詳細に分析し、その世界を照射してゆきたい。


 アポリネールにとって詩は<造形の三つの徳>(1908年6月)を述べた時から繰り返し言い続けているように、生の現実をそのまま写したものではなく、そのtransformationである。『アルコール』以後で、彼が生の現実をどのように変形し、その結果表現された世界はどのようなものであったかを、『ルーへの手紙』の中の最後から二番目の連作「露営の火」「蠅のうず」「騎士よさらば」(1915年9月)を検討することで考えてみる。

 これらの詩はルーのみへの愛情の中でかかれたのではなく、絵に添える詩を書いてほしいとローランサンに頼まれたのがきっかけであり、元来は七つの詩で構成されている。少しずつ言葉をかえて、ローランサン、ルー、マドレーヌに贈られた。これらの詩をとりあげる理由は、依頼され、そのうえ複数の相手に贈ったという動機や状況はどうであれ、これらの詩は手法から見て、晩年の最も澄み切った作品と言われている『恋に命を』に繋がっていく作品であり、アポリネール後期の作詩法を知るのに適していると思うからである。

 第一のtransformationの特徴はその抽象化である。具体と抽象の往復運動からしだいに抽象へと向かう。たとえば、「露営の火」では悔恨と後悔という抽象名詞の後に<剥けた一粒の苺>という生々しい言葉がくる。同じ手法が<想い>(les songes)と<からんだ枝>(l'entrelacs des branches)にも見られる。韻を見てもfraise, braiseはともに色が赤であるが、一方は有形の円であり、他方は無形である。色も形もないsongeから丸いfraiseを経てまたbraiseの無形となる。ここには時間の経過とともに具象−抽象の往復運動がある。さらにまた同じ単語が具体と抽象の橋渡しを担う。例えば「蠅のうず」の蠅である。戦場の死体に群がる生々しくも具体的な蠅が彼にとっては生命と死の象徴である。またこの抽象化を増幅しているのが三人称である。「露営の火」では主体が詩の背後に隠れていたが、「蠅のうず」と「騎士よさらば」では三人称となっている。彼自身がマドレーヌへの手紙の中で言っているように、一人称が三人称となり、語りの主体が物語(petit roman guerrier)という枠の中に吸収されている。過ぎ去った恋、過ぎ去りつつある恋、これからの恋、という三つの恋をかけもつ当時のアポリネールの複雑な心情を変形、抽象して単純な物語を形作っている。

 このような抽象に対するアポリネールの考えは1904年のピカソの絵画との出会いによってすでに断固としたものになっており、現実を抽象化することにより現実とは別の世界を詩においても作り上げようとした。戦後の彼の評論における言葉を使えば、「レアリテを解釈するとこがとりわけ重要である。モチーフはもはや再現されず、相対立するものを両立させる<包括的単純化>schématisation intégraleとでも呼べるものによって、モチーフは暗示されるのである」(1917年5月)。アポリネールの後期の詩はこの暗示によって淡い影のようなものになっている。

 第二のtransformationの特徴は連作詩の閉じられた円環性である。この連作詩はローランサンに宛てられたときには"Médaillon toujours fermé"と題されていた。このことが端的に示すように、これらの詩は一つの閉じた環を作っている。一つ一つのつながりは音韻、意味ともにずらしながらつながっていく(露営のゆらぐ火→苺→燠火→バラ→地獄の花々)。詩集に入った決定稿(1917年)の改変で一艘その円環性を強める。(北風→おまえのため息にまじる風)。そのうえ最後に三人称の主人公が死ぬことによって環が閉じられる。詩の中の単純過去と指輪の嘲笑の半過去は連作詩を枠の中に閉じ込める働きをしている。『アルコール』で愛されぬ男がことばの力によって甦ったのに対し、『ルーへの手紙』では最後の詩の中の墓碑銘が示すように、愛を失った男は指輪の力と言葉の力によってもはや蘇らず、死ぬ。手紙全編であたかも通奏低音のように繰り返し語られる愛するものに贈る戦場の指輪はこの抽象性と閉じた環を暗示する。しかも指輪の力によっていまや愛も詩中の主人公も復活しない。こののち愛の喪失をもはや歌い続けなくなったアポリネールは、それまで<振られ男>としての詩の原動力を見出していたがゆえに、そのテーマを見失ったと言えば、言い過ぎになるのだろうか。

 アポリネールの後期の作品に見られる盲目のテーマは、彼の創作に対する不安を強く表わしていた。『カリグラム』の最後の詩である「勝利」と「かわいい赤毛の女」で率直に歌われるその不安の中心は何か。何を把握しかねていたのか。何に失敗したと思っていたのか。その答えの一つが、上で述べたように、彼が主張した概念であるschématisation intégraleそのものにあるのではないだろうか。

第14回ボードレール研究会

司会者報告 - 北村 卓(大阪大学

 今回の研究会は、7月24日(土)大阪大学待兼山会館において開催されました。参加者は14名。~
 最初の発表は、小西葉子氏による「ボードレールにおける脱出願望と詩の創造について」。発表者は、まずボードレールを取り巻く苛酷な外面的現実および内なる孤独意識について説明した後、ボードレールは当初そこから逃れるために酔いの助けを借りて人工楽園の構築を目指すが、それは束の間のものにすぎず、最終的には、意志の力によって夢想の世界を築き上げ、それによって芸術作品・詩を創造に至る、とする。さらに今後の研究として、芸術の言語化における問題を探るため、ボードレールにおけるエドガー・A・ポオの受容について考えたいとの展望を述べられた。~
 今回の発表は今春提出された卒業論文に基づいていることもあって、内容は、ボードレールの詩的営為の過程をかなり概観的に論じた感もあるが、基本的な資料を踏まえた着実な研究成果の発表であった。今後は、質疑応答において指摘があったように、テキストを今一度緻密に再検討し 瓣作品の制作・発表時期なども視野にいれて、より説得力のある研究へと発展してゆくことが期待される。~
 続いて、横道朝子氏が「ポンジュの"L'Azur"―"La Mounine"の詩学」というタイトルで発表された。『物の味方』に収録されている作品に見られる従来の散文詩形式を大きく逸脱する形式で、ポンジュが1940年前後に集中して制作した作品群のうち、発表者は「ラ・ムーニーヌ、あるいはプロヴァンスの空についての回想ノート」(執筆1941)を採り上げ、精密なテクスト分析によって、その作品および「開かれた形式」で書かれた作品群の詩的世界を明らかにしようと試みた。~
 作品中に、自己批評や引用など異質なエクリチュールが混入しているこのテクストでは、オクシモロンの使用等によって、詩的言語が一つの明確な指示対象を指し示すことが徹底して避けられ、またシニフィアンは、その語の物質性 ワのレベルの連鎖によってどんどんと横滑りしてゆき、そこからシニフィアンの揺らぎが生み出される。まさに意味生成の現場そのものを露わにしているこのテクストは、後にバルトやクリステヴァが理論化する意味生成の理論および現代詩の方法論を予告するするものでもあり、きわめて興味深い。ポンジュ研究の射程においても、閉じられた形式から開かれた形式への移行というテーマをこうした観点から検証する試みは他に類例がほとんど無く、さらに同時期に書かれたその他の作品さらには1940年代以後の作品群をも視野に入れることによって、総合的かつ独創的なポンジュ論へと結実することを期待したい。~
 研究会終了後、懇親会に場を移して、和やかな雰囲気の中、活発な議論が夜遅くまで交わされました。

ボードレールにおける脱出願望と詩の創造について - 小西葉子(奈良女子大学大学院生)

 梅毒を患い、ハシッシュなどの薬物を用い、失語症と半身不随で最期を迎えたボードレール(Charles Baudelaire)について、病理性からの研究もなされている。だがここでは、彼を生きることに苦しむ一人の人間として、人生に寄り添って、筆者なりの関心を持って研究した。ボードレールの現実と夢想と、芸術的創造の可能性について論述する。~
 十九世紀のフランスに生きたボードレールは、現代においてその詩的世界の広をひろげた功績を讃えられている。だが、彼を一人の人間として見たとき、彼は詩を書かずにはおられなかったということがわかる。~
 この詩人現実を暗いものにしたのは、幼い頃からの孤独であった。6才で父が亡くなり、その翌年に母はある軍人と再婚する。このことで幼いボードレールは父親ばかりかと母親をも心理的に奪われてしまった。軍人 秊ニ詩人という不幸な義理の親子関係もそれに追い打ちをかけ、オディプス・コンプレックスは強まる。そればかりではなく、実父の遺産を浪費するとして準禁治産者とされ、常に借金取りに追われる生活が始まった。社会的にも孤独が漂うなかで、彼が苦しみの中からつむぎだした詩集『悪の華 Fleurs du Mal』は風俗壊乱のかどで罰金と一部削除とを科されるに至り、芸術的にも認められない。激動の時代が持つ憂いと、個人的な家族的、社会的、創作的な三つの孤独を持ちこたえ、それらを生み出す苦しい現実から逃れようと、「彼処 au-del・vを志向する。~
 こうして生まれたのが「人工天国 paradis artificiels」である。「彼処では、すべてが調い、美しく、贅沢と、静寂と、悦楽と。」(『悪の華』53「旅への誘い〉と書いているように、そこには彼の生を脅かすものは何も存在しない。時間さえも消え去ったこの楽園は、胎内空 Z想の象徴ともとれる。彼は酒や薬物に酔うことで夢想に彩られた内面世界に入ってゆき、それらが効き目を失うと現実に引き出される。だが、彼は幸いにも詩人であったので、現実と夢想という二重の世界に生きることができた。彼は自身の夢想世界を詩として言語的に形にし、それを芸術という枠組みの中に閉じこめることで、その特異な世界を意志によって堅固に守ったのである。~
 芸術家はその世界が独特であることを良しとされ、現実生活での適応がが多少困難であっても許される傾向にある。これは、芸術という分野が人間の本質に触れていることを意味している。個々の人間がその内なる芸術性に正面から向き合ったとき、そこに人間的な存在の拠り所を見つけることができるだろう。異常性を詩という枠組みに納め、詩人として独自な仕事をしながら現実の苦悩の中を歩き続けたボードレールの姿は、芸術の持つ可能性を示唆している。

ポンジュの L'Azur ― La Mounineの詩学 - 横道朝子 (関西学院大学非常勤講師)

 1930年 ィ代末以降、フランシス・ポンジュは、『物の味方』(Le Parti Pris des Choses)収録作品に代表される典型的な散文詩の形式を大きく逸脱する「開かれた形式」による作品を産み出していく。詩の創作過程を日記のように提示するため「詩的日記」ともよばれるこの形式は晩年に至るまでポンジュ書法の根幹を成すものとなる。このジャンルの作品についてのこれまでの研究では、管見によれば、形式の移行期にあたる40年代のポンジュの思想や当時親交を始めた画家たちとの関係に焦点を当てて論じられたものが多く、「詩的日記」という時間軸を持ったエクリチュールの中で作品を構成する要素がどのように展開していくのかを具体的に検討したものは少ない。そこで、今回の発表では「ラ・ムーニーヌ、プロヴァンスの空についての回想ノート」(La Mounine ou Note apr峻 coup sur un ciel de Provence)を取り上げ、この点についての考察をすすめた。~
 「ラ・ムーニーヌ」の執筆期間は1941年5月3日から8月5日。ドイツ軍の侵攻を逃れて南仏に移住していたポンジュはエクス近郊ラ・ムーニーヌと呼ばれる場所で特権的 楕蒼空に出会い、その風景と感動を保存しようとノートを開く。作品では「あの日の蒼空」の記憶を手繰る過程、どのようにしてこの蒼空が現れたのかを解き明かそうとする過程、それまでに書いた部分についての自己批評(書き直し、詩論)など、さまざまなレベルのエクリチュールが混交しており、あたかも蒼空の主題による変奏といった観を呈している。~
 一読すると、この作品が対象についての根本的な問い直しであり、対象とそれを指し示す語との一対一の対応関係を徹底的に壊していこうとする試みであることがわかる。例えば、蒼空の描かれ方について言えば、マラルメがそうしたように対象を メazurモという一語で呼ぶことは決してない。詳細な描写を通して、対象が一語で表現できるような一様なものではなく、多様な要素が混在するものであることが示される。特にこの作品において興味深いのは、「昼と夜」「光と闇」「透明と混濁」など本来相反し、両立しえない要素が、混在・並存して描かれることである。~
 こういった対象の脱構築は、事物(chose)への注視からだけでなく、語(mo nt)への注視からも導かれる。「ラ・ムーニーヌ」においては、とりわけ、シニフィアンに属する要素(音や文字の形・配列など)が作品の展開を担う重要な要素となっている。作品において最も多く見られるのが、ある語が同じ音を持つ語を喚起するという場合である。例えば、苔(moussue)についての描写では、メmoussues scintillentモという表現が、[m],[s],[ij]を持つ語(mousse, roussie, jaillit, brille, tresses, molles, mobiles)を喚起して、同じような音を持つ語が集まっている。
 こういったあるシニフィアンから同音を持つシニフィアンへの横滑りとともに作品の展開を支えるのが、一つのシニフィアンの中でのシニフィエの揺らぎである。例えば、作品で多用される メ残latモという語は多義を含む語であるが、この語は作品冒頭で空の「輝き」について書かれた部分に用いられるが、次に「音、響き」について書かれた部分に用いられ、さらに、後半部に至っては 「断片」(d暫ris)に置きかえられてしまう。そのため、この語は「輝き」「響き」 _「破片」といった複数のシニフィエの間で揺らぎ続けるのであり、これによって、シニフィアンシニフィエの一対一の対応関係が崩されていくのである。~
 このように「ラ・ムーニーヌ」では、対象である事物や語についての徹底した脱構築がなされる。それは明白すぎる記号体系・価値体系に潜む闇を暴き、それを破壊していく試みであり、ここから啓蒙主義者としてのポンジュの一面を見る研究者も多い。しかし、この作品のエクリチュールが明白に示すように、ポンジュはこの破壊作業のかなたに新しい価値を見出そうとしていたのでは決してない。というのは、この作品は「感動についての一つの法則を見出す」ために書き始められたにもかかわらず、費やされた言葉、イメージが一つの法則へ辿り着くような方向性を持っておらず、それどころか、ある一つのイメージが固まりそうになると、詩人は意識的に「あの日の蒼空」の記憶に立ち戻り、さらに新しいイメージを喚起して、そこから離れていこうとするからである。すなわち、「ラ・ムー Uニーヌ」のエクリチュールとは、差延(diff屍ance)のエクリチュールであり、「あの日の蒼空」とは メintensit謝 によって一つのモノ化した記憶であると同時に、実体をともなわない予測不可能で不確定な破壊的要素、すなわち、プンクトゥムであると言えよう。たとえ、ある法則を見つけだせたとしても、それは無限に書き換えられる可能性をはらんでいるのである。実際、作品は法則に辿り着かないまま、未来のある日に、蒼空についてのエクリチュールが更新されることを予告して終わる。~
 したがって、この作品が提示するのは、一つの固定したシニフェエではなく、シニフィエシニフィアンの位置で生成される現場、あるいはシニフィエシニフィアンによって書きかえられていく現場、意味が生成・廃棄される現場なのである。そして、このシニフィアンの戯れとも思われる詩学は、この作品のタイトル―La Mounine という明確なシニフィエを持たず、シニフィアンだけを持つ―が端的に示しているのである。

第13回ボードレール研究会

司会者報告 - 山田兼士(大阪芸術大学

 第13回研究会は2002年3月23日、大阪芸術大学で行われました。参加者は9名。やや少ないのが残念でしたが、充実した発表と活発な質疑応答が行われました。~
 今回の発表は、本研究会発足以来の会員である秋吉孝浩氏のシャンフルーリ論と、新会員田中直紀氏のランボー論。どちらもボードレールとの関係を背後に置いた興味深い発表でした。
 まず秋吉氏の「シャンフルーリによるクールベ論再考」では、既発表の論考を前提に、シャンフルーリの美術批評の戦略、主にその政治的配慮を、同時代の文学・芸術の状況の中で明確にしようという試みが示されました。『悪の華』への批判を「予言」したと言われるシャンフルーリの社会認識の鋭さ、特にレアリスム批判に対する敏感さが、クールベ絵画の「寓意性」の無化というベクトルをもった時、独特の二重性を(時には矛盾をも)はらんだ反歴史主義の思想が生成した、とする論の展開はなかなかにスリリングで、新鮮な刺激に満ちたものでした。発表後、1848年当時のシャンフル リ、クールベボードレールが織り成していたレアリスムをめぐる状況についての説明が求められましたが、この点について秋吉氏からは、一見曖昧微妙に見えるシャンフルーリを再評価するために今後の課題としたい、という旨の回答がありました。また、当時の絵画の政治性、思想性について、寓意的な読解の政治性に対するシャンフルーリのスタンスは明らかにされたが、他方、芸術的立場との関わりはどうなのかという質問があり、これに対しては、1847年以来のホフマンの幻想的コントとの関わりなどを引例し、そこにボードレールとも共有 艪オていた美的な志向が指摘され、アレゴリーに対する意識の鋭さと公の意見としての政治性の必然との葛藤が大きな問題だった、との回答がありました。~
 次に、田中直紀氏の「『地獄の夜』の「毒」について」では、従来キリスト教の信仰の喩とされてきた「地獄の夜」の「毒」が、実は悪魔主義のそれだったのではないか、との視点に立って、ボードレールの「反逆」詩群との関わりを背景にしつつ、ランボーキリスト教観/悪魔観を見直そうとの試みが為されました。作品の細部を具体的に読み込みつつ、革新性ばかりではなく伝統的な宗教観、神秘観を再認識することで、逆にランボーの革新性の実体をあぶり出そうとする逆説的な方法と司会者には想像されました。発表後、そのようなある意味で伝統的な方法で読み直しをすることの意義がどこにあるのかという質問がありましたが、この点について田中氏は、例えばロラン・ド・ルネヴィル等1950年代以前のランボー解釈の可能性を見直すことで、あまりに行き過ぎた昨今のテクスト解釈を洗い直し、19世紀当時の詩の状況を再発見する企ての一環であるとの回答がありました。今後の展開に注目したいと思います。第13回研究発表要旨

シャンフルーリによるクールベ論再考 - 秋吉孝浩(大阪市立大学非常勤)

 旧稿「シャンフルーリによるクールベ『火事に駆けつける消防士たちの出発』論をめぐって」(『周辺』の会発行『周辺』第16号、1996年5月10日、に掲載)では、クールベの一枚の絵をめぐって、シャンフルーリとクールベの社会的態度の違いを中心に論じた。これまでにも多くの論者が、クールベを擁護する際のシャンフルーリの「政治忌避」について述べているが、今回は、そうしたシャンフルーリの態度を別の観点から、クールベの絵にみられる寓意に注目して考察してみた。~
 1848年のサロンでシャンフルーリはクールベに初めて言及しているが、ここで注目すべきなのは、同じ年に出品されていたロマン主義的自画像である《チェロを弾く男》ではなく、現代的な寓意画《ヴァルプルギスの夜》(現存せず)を評価している点である。これは、批評家としての社会的立場に立つ以前のシャンフルーリの視点であるといえる。~
 以後、クールベは新たな寓意表現をもった、それだけに政治的に危険とみなされ得る作品を発表し続けるが、《画家のアトリエ》にせよ、旧稿で取り上げた《火事に駆けつける消防士たちの出発》にせよ、些かもシャンフルーリは評 ト価することがない。特に《アトリエ》に描かれているミューズとしての女性像などは、揶揄の対象にさえなっている。さらにそうした揶揄は、サロン出品時の題名にみられる「現実の寓意」という語にも向けられるが、そこからはむしろ、絵画が寓意化されることへのシャンフルーリの危機感が感じられる。~
 では、そうした危機感はどこから来ているのか?1850-1851年のサロンに出品された《オルナンの埋葬》のスキャンダルに対するシャンフルーリの対応をみていくことでそれを明らかにしていくことができるだろう。~
 シャンフルーリは、一方ではそこに描かれた人々を人間として擁護し、また一方ではその醜さをブルジョワ特有のものとして社会的な批判を行なう。これは、体制側、つまり当時の共和制政府の新興ブルジョワ階級やボナパルティストたちからなる新聞の批評家達の表面上の全員一致(描かれた人物の醜さに対する非難)を粉砕すると同時に、反ブルジョワ側の正統王朝派の人々の支持を得ようと期待する、きわめて政治的な擁護の仕方であった。さらにそうした擁護の方法は、Jean-Luc Mayaudが明らかにした(Courbet, LユEnterrement ・Orn ヒans : Un tombeau pour la R姿ublique, Boutique de lユHistoire, Paris, 1999)、「共和国」の寓意としての女性の埋葬という、当時同じようなカリカチュアが氾濫していたことから、この作品をみた誰もが意識したであろうと考えられる、クールベの作品がもつ政治的な寓意から目を逸らさせようという意図があったと思われる。~
 こうした状況を生きたシャンフルーリにとって、女性の寓意像は、一種のタブーと化していた感がある。彼の文章をそうした視点からみると、ボードレール的な現在の表象を主張しながらも、しかし同時に、個人の死という一回性の死からその一回性を剥ぎ取り、それを民衆化し永遠化することで、現在自体の普遍化というある種矛盾した行為をシャンフルーリが行なっていることがわかるが、《オルナンの埋葬》擁護においては、「共和国」を寓意する女性という歴史的な一回性の死をも、日々の生と死のサイクルの中に隠蔽しようという意志がみてとれるからである。後に書かれた文章をみると、空間的な地方の特殊性をも平均化することで、民衆化し普遍化してしまおうとするようなものもみられる。さらに、《オルナンの食休み》の評 メ価の仕方には、この絵がスキャンダルを引き起こさなかっただけに、かえってシャンフルーリの民衆化、普遍化への意志が生で現れている。その意志を支えているのは、寓意表現のもつ政治的な意味の生産性、そして逆に現実がもつ寓意化への傾向に対する、シャンフルーリの拒否である。(因みに、ボードレールの『悪の華』を、「レアリスムの名において断罪されるだろう」と予言したのは、まさにこのシャンフルーリである。)~
 後に、政治的にならざるを得ないはずのカリカチュアをも、その歴史的属性を剥ぎ取って、美術史化してしまうシャンフルーリ。この古代以来のカリカチュアをすべて美術史化するという膨大な作業に、シャンフルーリの現実的な歴史の拒否への執拗さをみるべきだろうか? そしてそういう美術史的な「歴史化」とは、あらゆるイメージを現実から引き離すことでしか可能でないとしたら、そういうシャンフルーリの意志とは、何か途方もないものといえるのではないだろうか? 今回考察したようなシャンフルーリのクールベ体験を、従来言われている彼の「政治忌避」だけにしてしまわないなら、そうした新たなシャンフルーリの意志が浮かび ミ繧ェってくる。~
 膨大なカリカチュアに関するシャンフルーリの資料を分析する作業とともに、そうしたシャンフルーリ像を導き出すことが、新たな課題として残っているが、そこで導きの糸となるのは、シャンフルーリが1860年に出版したChansons populaires des provinces de Franceにクールベが付けた挿絵の版画である。そこには、産業の進歩の象徴である鉄道と、つるはしを使って地を耕す人を見守る女性像が前面に描かれおり、しかも、その女性は、水を汲むという行為において、クールベに特有な、泉と女性というテーマを示すものとして非常に興味深いものであるのだが、いずれにしても、ミレーの描く人物を、プロレタリアートとして切り捨てるシャンフルーリが、「自然」という民衆的な寓意像を、自らの本の挿絵として、受け入れている点が非常に興味深く、現代の美術史家メイヤー・シャピロのいう「民衆芸術と産業の壁画というシャンフルーリの一対の計画におけるうわべの矛盾は、レアリスムを推進させ、第二帝政独裁制を終らせた社会的運動の不安定で、不確かな性格に由来しているように思われる」という命題とともに、今後考察していきたい。

「地獄の夜」の「毒」について - 田中直紀関西学院大学非常勤)

 A.ランボー散文詩集『地獄の季節』(1873)はプロローグを含め九つのパートをもって一つの物語を構成する。その本編の第二編「地獄の夜」で語り手は「かの名高い毒」を呑みこみ、炎につつまれ身体が捻じ曲がるような地獄の感覚を味わう。この「毒」とは何かを再検討しながら、作中の宗教的要素の整理をおこなうことが本発表の目的である。~
 この「毒」をキリスト教の宗教そのものとする説は多くの論者に支持されている。キリスト教を受け入れようとしたからこそ、語り手は「罪」の意識に苦しめられるというのである。しかしながら、語り手は子供時代に両親の教育によりすでに教化されている者らしいのである。また、語り手は先のパート「悪い血」において、自らを「異教徒」「悪い血」の者と規定し「良い血」の者たるキリスト者に対置する二項対立図式を提示している。その図式下で叛逆を表明されるのであるが、そのような規定そのものが叛逆対象者たる「良い血」の者の価値体系によっているのである。「地獄の夜」で語り手が呑みこむ液体が「毒」と呼ばれるかぎりにおいて、それは「悪い」と規定されているものであ 驍閨Aその規定はやはり同様の価値体系におけるものと考えられる。そこで「忠告」をキリスト者の側からの、その液体を呑むことへの忠告ととらえるかぎりにおいてこそ「いただいた忠告」への感謝の皮肉の意味が生きるのである。「キリスト教の信仰という毒を勧めたのも悪魔」なら「叛逆を唆すのも悪魔」ととれるブリュネル説では、そもそも悪魔観そのものが特殊に過ぎるであろう。むしろアダンのいうように「毒」を呑むことを叛逆への目的観に沿ったものと見るべきではないだろうか。~
 ランボーのいわゆる「見者書簡」(1871)と『地獄の季節』に連続性を認め、『季節』の語り手を見者理論を実践するランボーの分身と見ることは、諸家の一致するところである。「書簡」ではある種の預言者的救済者的詩人像が提示され、そのような詩人、見者詩人と自らをなすため、自身に試練を課し人格を変性させる方法論が錬金術カバラなどの神秘哲学に則って展開されている。『季節』がまさしく自らを見者=魔術師たらしめようとする秘儀参入の物語であることは中地義和氏の研究に詳しい。実際「地獄の夜」では業火に焼かれる感覚のなかでこそ、語り手の求める「ヴィジオン」は掻きたてられる 0フだ。デイヴィスは作中の「火焔の巣」という語に不死鳥の巣のイメージをみて取っているが、これは秘儀参入の物語の性質を知る上で重要な指標をなす。不死鳥のイメージはまさに神秘学的人格変性の象徴と言える。そもそも炎に焼かれる苦痛の感覚そのものを、見者たろうとするものが自らに課さねばならないという試練とまいなすことができる。炎の感覚を与えるのは「毒」なのであって、するとそれを「呑む」ことが語り手の秘儀参入の目的観にまったくそぐった行為であることを認めなくてはならなくなる。~
 そしてさらに、その目的観そのものが、キリスト教的意識をとおしてみる限りにおいては、被造物に許された則を越えようとするまさにルシファー的叛逆とみなされるものであるのだ。デイヴィスはまた「炎の一滴」の語に洗礼の水のパロディーを見ている。ブリュネルはこれさえ「毒」をキリスト教とする根拠にしているが、このようなパロディー性こそは悪魔崇拝の特色であることを 瘤w摘せなばならない。ランボーは特にミシュレの『魔女』(1862)や、書簡で「第一の見者」とたたえるボードレールの『悪の華』(1857)の「叛逆」のチクルスなどをつうじてロマン派的悪魔主義に親しんでいたことは疑いを入れない。その悪魔観では、サタンは、特殊な知恵と技術の担い手であり、社会の不正を容認する不実なキリスト教の神に対し、弱者の側から真の救済を目論む貧者の神、敗残者の神なのである。書簡では見者詩人は「火を盗む者」と言われているが、プロメテウスはそのような悪魔観におけるサタンの原像であるのだ。「地獄の夜」の草稿において、悪魔が自分に吹きこまれる「魔術、錬金術」の担い手とされていることは、この悪魔観にそぐっているし、もとより「良い血」と「悪い血」の対立図式にこの二項対立は対応しているのである。そして魔術師たらんとする語り手が秘儀参入の効 猝を有する「炎の一滴」を要求するのはサタンに対してなのである。この炎の液体こそ冒頭の「毒」なのであり、キリスト教への叛逆とみなされる目的への手段として位置づけられるべきものなのである。~
 よって「毒」はキリスト教の信仰そのものであるよりは、サタンのもとでのキリスト者への叛逆に向けたものなのである。象徴学的には、擬似的な死と秘められた智慧の獲得をもたらすものとして、「創世記」で蛇がイヴにすすめる「知恵の果実」と同様の類型に分類することができるであろう。ある種の神秘学ではこの蛇を人類に智慧を授けるものとして崇拝しているのである。その詩史における革新性ばかりが強調されるランボーであるが、『地獄の季節』はその物語の基本的な枠組みにおいて、既成の思考類型に多くを負うている、というより、それをモチーフとしているのである。

第12回ボードレール研究会

司会者報告

第12回の研究会は大阪文学学校で開かれました。目まぐるしく姿を変えつづける商都のほぼ中央にどこかしら時間から取り残されたような古い情緒を感じさせる谷町筋一角に平成の寺子屋といったらよいのか、気鋭の志をもって集まる市井の文人たちの熱気のこもる文学学校の一部屋が今回の研究会の場所となりました。参加者は10名。暮れの土曜日というなにかと会合の集中する時期にしては盛会といえましょう。今回の発表はボードレール中原中也、そしてこの研究会としてははじめてのロートレアモン。いずれも短命で「呪われた」境涯を持つ詩人たち。アカデミズムの解剖台にのせるより、実作の血の流れる場所こそが彼らにふさわしいのかもしれませ 5B~
 まず山田兼士氏が「中原中也の「憂愁」詩篇――ボードレール詩学からの反照」と題して発表されました。「時間の制約もあって、今回の発表ではその一端をうかがうにとどま」(第11回北村卓氏司会者報告)った前回の発表「ボードレール中原中也」の、そのいわば本論にあたる内容を、いつもながの山田節ともいうべき熱弁で多いに語られました。ボードレールの訳詩(『悪の花』完訳の意図があったのではないかと大岡昇平とともに山田氏も指摘)やリヴィエールのボードレール論の翻訳のある中原の詩作品はボードレールから少なからぬ影響を受けていることを、とりわけ晩年の作品、「曇天」以降から最後の未完詩篇にいたる、今回は具体的なテクストの読みの中で仔細に示されました。中原とボードレールという気質や感性においておおいに異なると思われる二人の詩人を重ね合わせるというなかなかに大胆な試みで、山田氏は、中原詩のとりわけ「空」に寄せる詩的表現のなかに多くのボ ・ドレール的な要素を指摘され、中原節に埋もれたボードレールの影と見えるものを丹念に拾いだされていきました。質疑の中で、中堀浩和氏は、ヨーロッパ象徴詩の大きな影響下にあった萩原朔太郎富永太郎など昭和初期の詩的ミリューの存在について発言されました。併せて、寺本氏からは、近代における東西の詩人の感受の在りようにおける普遍的な状況と、個々の詩人たちにおける具体的な影響関係との混同がありはしないかとの指摘がありました。司会者としては、ランボーはじめヴェルレーヌ、また「骨」などに見られるヴィヨン(「絞首罪人のバラード」)など、中原へのより顕著であると思われる影響詩人たちが視野に入っている中で考察すれば、ボードレールとの間の照応関係がよりはっきりと、かつ説得性をもつのではないか、また、中原論への貢献として「影響」の指摘は当然のことながら重要ですが、ボードレール的な部分に着目しながら、むしろそこからはみ出す部分にこそ露呈する中原という詩人の特異性を中原論として活かせばさらに面白いのではないかと思いました。~
 つぎに寺本成彦氏が「『マルドロールの歌』における「吸血鬼の変身」の変貌――ロートレアモン=デュカスによるボードレールの書換え」と題して発表されました。本発表は氏の博士論文Travail de la r試criture dans Les Chants de Maldoror de Lautr斬mont(Presses Universitaires du Septentrionから今春刊行予定)のボードレールに関する章からの報告ということですが、十分な発表時間がなく(司会者の采配の不備もあり)、かいつまんだ要約というかたちになってしまい、発表者は意を尽くせず聞き手はいささか消化不良となった感のあったことは否めません。『マルドロールの歌』に散見される文学的・科学的書換の中から、今回の発表では、ステンメスの指摘するスルスのひとつ、ボードレールの「吸血鬼の変身」が、第二帝政下において禁断詩編として詩集から追放されていたにもかかわらず、いかにしてデュカスがそれを読み得たのか、詩人の足跡と時代状況の検証を経て、さらにどのようにそれを書き換えたのかを考察されました。その中で、ボードレールのテクストが『マルドロール』において、比較項と比較対象が逆 ケ転されていること、また内容がさらに涜神的にはげしく加速されていることを検討され、それはデュカスの文学的行為であるにとどまらず、イデオロギー的な立場の表明でもあったことが、無駄のない鋭利な分析によって論じられました。質問としては、山田氏から、デュカスのパリ入場の時期について考証的な確認がありました。『マルドロール』において、瓢窃や換骨奪胎の意味するものとその文学的射程、比喩の問題、比較対象と比較項の関係性、それらの問題の前提と向かうところが、今回は、大きな論文の一部の発表ということで、割愛されたかたちで、ボードレールの一詩篇のケースのみが取り上げられたため、映画のさわり部分を見ただけのような、物足りなさが感じられたのはやむを得ないところでしょう。次の機会を期待したいと思います。

『マルドロールの歌』における「吸血鬼の変身」の変貌 ―ロートレアモン=デュカスによるボードレールの書換え― - 寺本成彦(神戸大学非常勤講師)

 ボードレール悪の華』が『マルドロールの歌』の主要な発想源をなしていることは,モーリス・ブランショも ヲツとに指摘するところであるが,それに続いてジャン=リュック・ステンメスは『悪の華』のみならず,評論集および“禁断詩篇”へもコーパスを広げ,いくつかの有力なスルスを発見・紹介している。今回の発表では,ステンメスが突き止めたいわゆるスルスのうち,1857年出版の『悪の華』初版に収録されていた「吸血鬼の変身」をロートレアモンの「第三の歌」第5ストロフとつき合わせ,書換えの詳細を検討した。~
 問題となるボードレール「吸血鬼の変身」は,1857年の名高い“『悪の華』裁判”において訴追・断罪され,公衆道徳紊乱のかどで削除されることになった詩篇のうちの一篇ではあったが,ベルギーに亡命中のプーレ=マラシによって印刷・出版された『19世紀パルナス・サティリック』(1862),『漂着物』(1866),『悪の華・補遺』(1868)にその後収録されることとなった。そのいずれかをロートレアモン=デュカスが手に取る機会があったと推測されるが,この件にまつわって指摘しなければならないのは,第二帝政治下という文脈において『悪の華』禁断詩篇を印刷・頒布・購入する行為それ自体が,ナ s|レオン三世の政府が維持する検閲制度への反感あるいは敵意に多かれ少なかれ裏打ちされるものであり,広い意味で反ナポレオン的な実践に他ならなかったということだ。~
 『マルドロールの歌』「第三の歌」第5ストロフは謎めいた淫売宿が舞台となる。もと修道院であったその陰鬱な建物で行われているいかがわしい生業を表す赤いランタンに関するくだりに着目したステンメスは,ボードレールの「吸血鬼の変身」の末尾の数行との間の無視しがたい類似性を指摘する。呼応する部分は両者の作品中でも決して大きな割合を占めるとは言えないが,ロートレアモンボードレール詩篇を構成する特徴をいくつか写し取っていることは疑えない(両者のテクスト中に見られるほぼ同一のサンタグム,共通する意味素, ヌ balancer ネ という動詞および ヌ le vent ネ /ヌ les quatre vents ネ )。ロートレアモンが,「吸血鬼の変身」をしめくくる凄惨な情景を下敷きとするだけでなく,いくつかのタームを正確に書き写そうとしている事実は否みがたい。いわば,ボードレ ヌ[ルの禁断詩篇終結部を出発点として,新たな物語を(再)出発させていると考えられる。~
 二つのテクストの類似点の再確認後,ロートレアモンによる書換え操作を具体的に検討した。ボードレールのテクストでは“吸血鬼=売春婦”のなれの果ての姿である「骸骨」が〈喩えられる対象〉 compar・ 次に続く一節すなわち「鉄の竿の先にささえられている風見鶏・看板」が〈比較項〉 comparant となっていた。それに対しロートレアモンのテクストではこの関係が逆転させられ, ヌ au bout dユune tringle de fer ネ を含む一節が〈喩えられる対象〉へ, ヌ carcasse ネ が〈比較項〉へと巧妙に置きかえられている。元のテクストに含まれるイマージュ・語彙に忠実でありながら,むしろ〈喩えられる対象〉の方を実在するもののイマージュへと逆転させつつ物語を始動させているのである。~
 主題上の類似点も無視できない。中でもロートレアモンのテクスト中,造物主=神と交わる売春婦の様子を描写するセグメントは,「吸血鬼の変身」の最初の数行の主要な特徴のいくつかを引き継いでいると見られる。売春婦の欲動の高まりとそれに伴う扇情的な仕草が共 衞して描かれるのに加え,両者とも「乳房」ないしは「胸」という身体部分が前景化されている。胸部の官能性にアクセントを置くためボードレールは「揉む」・「こねる」という動詞および乳房を持ち上げる「コルセットの張り骨」に言及するのに対し,ロートレアモンは「渦巻くサイクロンが鯨の一家をもちあげるように〔乳房を持ち上げる〕」といういささか唐突とも言える直喩を用いている。当時コルセットの張り骨は鯨のヒゲを材料として作られていたことを勘案すれば,ロートレアモンの用いるこの直喩は,〈胸を包み込む容器 contenant としてのコルセットの張り骨=鯨のヒゲ〉から,〈コルセットが包み込む対象 contenu としての胸=鯨〉へと,換喩的なずれにより得られたと見なせよう。~
 ロートレアモンにとって「吸血鬼の変身」の書換えとは,彼自身の文学的立場にとどまらず,イデオロギー上の立場をもかけた行為であったのではないのだろうか。「吸血鬼の変身」を写し取り書換える実践は,たとえそれが部分的にとどまるものであれ,第二帝政下の検閲装置によって封殺された禁断詩篇を自らの作品中へと召還することに他ならない。ボードレールが結局のところ公衆道徳紊 逅で裁かれたのに対し,ロートレアモンの作品の方は造物主が淫売宿の客となるという大胆な設定の物語を含んでいる以上,公衆道徳紊乱に加えて宗教道徳紊乱のかどで当局に追求される恐れがあったと考えても間違いなだろう。当局の訴追を恐れて印刷完了後も第二帝政下では書店の棚に並べられることのなかった『歌』が,もし何か何らかの仕方で――例えばプーレ=マラシ自身が組織していた非合法的なルートを経ることで――フランス国内で頒布されていたのなら,文学史は“『マルドロールの歌』裁判”を帝政末期の文学的事件として記憶することになったのではないだろうか。

中原中也の《憂愁》詩篇ボードレール詩学からの反照 - 山田兼士

 前回の発表に続いて、中原中也晩年の作品をボードレール詩学に即して読解した。ここでいう「晩年の作品」とは、1935年から37年にかけて書かれた詩作品のことで、詩集『在りし日の歌』に収録された詩篇と未刊詩篇の両方を指している。~
 まず最初に、ここで用いている「ボードレール詩学」の内容を(ごく大雑把にだが)要約しておく。詩人の想像力が理想的な魂の状態に憧れつつも(芸術詩篇)現実の重荷に拉がれていく様を描いた作品群(憂愁詩篇)を出発点とし、そこに詩人の魂の《憂鬱》を措定する。この憂鬱は一つの状態に止まり続けるのではなく、やがて明晰な精神の問いかけによって様々な変移、展開を遂げてより意志的な《憂愁》の状態を作りだす。さらにその《憂愁》のダイナミズムが臨界点を越えて外部に拡散した時、死者の眼差しをもつもう一人の詩人が誕生し、自在に内と外を往還することで新たな詩世界を創造することになる(「パリ情景詩篇」)。一度《外部》へと流れ出した詩人の《憂愁》は、さらなる自由と可能性を求めて韻文の殻を打ち破り《散文》の領域(より現実的日常的な都市生活の諸領域)へと広がっていく(散文詩篇)。~
 ボードレールが晩年に自ら体現した韻文詩から散文詩への展開を以上の観点から要約すれば、理想→憂鬱→憂愁→外部→散文的現実、というプログラムが成立することになり、ここに現代詩の一つの宿命(モデルケース)が確立したことになる。20世紀における(ある種の)詩人たちはいずれもこのプログラムをそれぞれに変形しながらも辿っているのであって、日本における萩原朔太郎もまた、その一典型を成していると思われる。~
 夭折した天才詩人、中原中也は、以上のようなプログラムと無縁の生涯を過ごしたように思われがちである。たしかに、その早熟な才気はむしろランボーのそれに比較するのが似付かわしく、また、歌への飽くなき探求はヴェルレーヌのそれになぞらえることができる。だが、その短い生涯の最後の数年において、明らかにランボーともヴェルレーヌとも無縁の、批評性に満ちた思想詩と呼ぶべき作品が多く書かれていることを、読者はどう理解すればいいのだろうか。その晩年の思想詩群にこそ、先に挙げたボードレール詩学からの反照が認められるのである。~
 1935年から37年にかけて書かれた中也の作品群を、今回は便宜上4つの時期に分けて考察した。(1)「曇天」(1936年5月)まで。(2)「言葉なき歌」(1936年11月)まで。(3)「蛙声」(1937年5月)まで。(4)「正午」(1937年8月)を中心に。以上(1)〜(4)の過程には、先に挙げた「ボードレール詩学」がほとんどそのままの配列展開で適用されることを検証した。すなわち、詩人の理想を描く前期詩篇(『山羊の歌』)を前提として、《憂鬱》から《憂愁》への展開、および《外部》への拡散の意志とその実現による新しい詩学の確立、である。ただ、中也の場合、あまりにも短いその晩年に、より明確な意識化のかたちで新しい詩学が体系的に示されることはついになく、ボードレール詩学の最後の展開というべき散文詩の全面展開には到らずに終った感が強い。しかし、1936年に雑誌『文学界』に発表された「散文詩四篇」は、最晩年の詩人がついにボードレール・プログラムを完成させようとの意志を垣間見せるかのように、「死後の生」とも呼ぶべき奇妙に晴朗な雰囲気を湛えており、再生への静穏かつ強靱な意志を暗示するかのようだ。中也の《歌》の彼岸に見え隠れしている《散文》への意志の裡に、ボードレール詩学の最後の反照が認められるのである。

第11回ボードレール研究会

司会者報告 - 北村 卓(大阪大学

 第11回ボードレール研究会は、10月13日(土)午後2時半より関西大学尚文館にて開催され、2件の発表がありました。参加者は12名。~
 最初の発表は、中畑寛之氏の「マラルメとF・フェネオン――アナーキズムをめぐって」。19世紀末に頻発したアナーキストによる爆弾テロ事件をめぐり、マラルメが何を考えていたのか、という問題意識を出発点に、とりわけ、アナーキストの陣営に属し、文芸・芸術批評も書いたジャーナリスト、フェリックス・フェネオンとマラルメの交流に焦点を据え、アナーキズムに関する両者の言説、さらには当時の文学的場におけるアナーキズムの問題を1891年から95年まで詳細にたどり、そこからマラルメ詩学的・政治的立場を浮かび上がらせようとする意欲的な発表でした。~
 質疑応答では、当時の政治・社会さらには文化的な状況においてアナーキズムがいかなる役割を果たし、またいかに捉えられていたのかという説明がやや不足しているのではないか。さらにはマラルメ純粋詩・批評詩の問題も含め、マラルメの作品そのものとどのよう ケネ関わりを持つのか、等々の有意義な質問やコメントが提出されました。~
 アナーキズムの立場にも、またそれに反対する立場にも身を置かないマラルメの一見したところ優柔不断ともとれる態度が、実は彼の詩学的な立場と密接に関わっているとの中畑氏の指摘は、マラルメ晩年の思想を明かす一つの重要な鍵ともなり得るでしょう。今回の発表の目的からして、資料として文学作品以外のテクストに比重がかかるのは当然ではありますが、さらに詩的作品をも視野に入れた総合的なマラルメ研究に結実することを期待したいと思います。~
 二つ目の発表は、山田兼士氏による「ボードレール中原中也」。従来、中原中也といえば、ランボーヴェルレーヌとの関係が前面に押し出され、ボードレールの影は薄かったのですが、山田氏は、中也がその晩年、きわめて意識的にボードレールに深く接して自らの詩的営為に取り込むとともに、『悪の華』を全訳する企図すら持っていたのではないか、という実に刺激的な仮説を提示されました。~
 昭和42年に発見された中也の翻訳ノートには、『悪の華』の二つの作品(「序詞」「祝詞」)が翻訳され、ま アスそのノートには1から8までの通し番号がついているとの指摘の後、山田氏はさらに、角川版『新編 中原中也全集』第3巻に収められた宇佐美斉氏の解題、また日本で初めて『悪の華』を全訳した矢野文夫との交遊など当時の中也を取り巻く状況も踏まえた上で、中也における『悪の華』全訳の意図の可能性に言及されました。その根拠の一つとして、中也晩年の作品群とボードレールの作品との親密なテーマの繋がりを挙げ、中也の「曇天」とボードレールの「憂愁」を例に取り、詳細かつ説得的に論じられました。~
 中也における『悪の華』全訳の可能性は、ボードレーリアンにとってのみならず、中也研究においてもきわめて魅力的な仮説であるわけですが、惜しむらくは時間の制約もあって、今回の発表ではその一端をうかがうにとどまりました。今後、中也晩年の作品群の徹底的な分析、さらには中也以前の日本におけるボードレール翻訳史の検討なども含めて、従来の定説を覆す画期的な研究となることを願っています。~
 なお、研究会の後、関大前の「ひょうたん」に場を移し、酒食をともにしながら、活発な意見交換を行いました。

マラルメとF・フェネオン ―アナーキズムをめぐって - 中畑 寛之(大阪産業大学非常勤講師)

 世紀末、とりわけ l'俊e des attentats と呼ばれる1892-94年、フランスにおいてアナーキズムが多くの芸術家や文学者の共感を獲得していく。なかでも、伝統的な韻律法を拘束と感じ、自由詩を実践する象徴派の若い詩人たちは、アナーキストの直接行動に煽られた激しい熱狂に浸っていた。マラルメがローマ街の自宅で催していた火曜会も必然的にその色に染まることになる。さて、自由詩が不安定な社会の「直接的な反映」 蘄ナあるならば、かつてコミューンの動乱について「政治が〈文学〉なしでことを済まし、銃撃でもって片を付けようとしているのは悪くない」と語った詩人は、今度は文学に侵入してきた政治をどのように見ていたのか? ここではフェリックス・フェネオン(1861-1944)を批評的な鏡として、マラルメアナーキズムの問題を再検討する。~
 年若い友人かつ卓越した批評家フェネオンがアナーキストとして逮捕されたとき、マラルメは「文学以上に効果的な武器を使うことができるとは思わない」と語った。おそらくこの発言が詩人の態度を完璧に表現している。J・グラーヴの La R思olt・誌94年の定期購読者リスト。スープ講演会を主催するL=E・ルーセへの手紙と10フランの寄付。H・ド・レニエの日記。ローマ街の師をモデルにしたモークレールの小説『死者たちの太陽』(1898) など、マラルメアナーキズムを結びつけ得る証拠をいく nツか挙げることができる。しかしながら、Uri Eisenzweig も指摘するように、その作品や発言のなかにアナーキズムはつねに「不在」である。92年 La Plume 誌、また93年 L'Ermitage 誌のアンケートへの回答はアナーキズムを含むさまざまな社会理論への詩人の無関心を確認させる。レニエが書きとめた「アナーキストである権利をもつ者はひとりしかいない、この私、詩人である」といった言葉も火曜会で披瀝されたいくつもの意見のひとつでしかないだろう。それは新聞が報じたフェネオンの声を反響させているように思う。マラルメが関心を寄せるのはアナーキストが社会に対して突きつけた「爆弾」だけである。思想ではなく、爆弾という物質がうみ出した効果への興味。というのも、その光がモ――爆弾に詰め込まれた鉄砲玉や釘ではなく――政治や経済といった社会の制度がフィクションでしかないことをわずかに照らしだしていたからである。爆弾、そこに詩人は詩、あるいは書物とのアナロジーを見出している。~
 アナーキズムの激しい炎が短く消え去った 蘄フちに始まるマラルメの「行動」、すなわち95年2月から11月にかけて La Revue blanche 誌に連載される「ある主題による変奏」シリーズ10篇および『ディヴァガシオン』という書物は、真に効果的な爆弾として、世界の虚構性を暴きだすものである。しかもそれは「その意図に沿って自らを限りなく変化させていく」ことができる。フェネオンはこれらのテクストを誰よりも先に読んだ。そしてこの批評家の眼と手の助けを借りて、つまりその綿密な校正を経て、po塾e critique は社会に仕掛けられていったのである。『骰子一擲』の校正刷を見せたヴァレリーとはまた別の意味で、マラルメはフェネオンを精神的な息子、あるいはもうひとりの自分とさえ見ていたのではないか。30人裁判のときのマラルメの証言を書き写してくれるよう、晩年 (1941)、フェネオンはナタンソンに頼んでいる。自己のことを決して語らなかった ヌcelui qui silenceネ の心にローマ街の師の言葉はどのように響いたのであろう。

ボードレール中原中也 - 山田兼士(大阪芸術大学

 中原中也(明40ー昭12)はしばしば「空の詩人」と呼ばれるほど、空をよく描いた詩人である。夙に昭和37年、菅谷規矩雄は、中也の初期作品「臨終」に見られる「空、地上の事象、空しい私、という三者の存在(あるいは非存在)」に注目し、中也詩における「空」の表象を鮮やかに解析してみせた(「空のむこうがわ」長野隆編『中原中也 魂とリズム』有精堂、所収)。だが、第一詩集『山羊の歌』では未だ比較的穏やかだった空のイメージが、第二詩集『在りし日の歌』では、不幸、不吉な事象に満ちていくことになる。詩「含羞」(昭11)における「空は死児等の亡霊にみち」などはその典型といえよう。~
 中也が生前に翻訳発表した唯一のボードレール詩篇「饒舌 Causerie」は、「空=君」と「地上の廃虚=私」が烈しく対照を成す点において極めてボードレール的であるとともに、「空と地上と私」のトライアングルと相似形を成す点において極めて中也的な作品でもある。これが翻訳された昭和9年前後から、中也の興味は加速度的にボードレールに向かっていったと思われる。リヴィエールによる「ボードレール」の翻訳(昭8)、モークレールの「ボードレールの天才」の部分訳(昭10)などはその傍証になるだろう。昭和42年に発見されて以来注目されてきたボードレール訳詩ノート(『悪の華』の冒頭2篇で中絶)や『新編中原中也全集』の解題、「空」を描いた晩年の一連の作品等を手掛かりに、晩年の中也が『悪の華』の全訳を意図していたとの仮説を立て、翻って晩年の作品群をボードレールという鏡に照らして読み直してみよう、というのが本研究のねらいである。~
 詩「曇天」(昭11)はボードレールの「憂愁 Spleen」(同題の4篇中4番目の作品)と非常に似た構成と主題をもっている。重苦しい空と憂鬱な私、という構図がまず目に付くし、曇り空の情景と「黒旗」の象徴は両者を貫くライトモチーフといえる。「曇天」の「黒旗」についてはこれまで様々な解釈がされてきたが、なぜかこれを「死の象徴」とする説はなかったように思う(私の見落としであれば指摘して頂きたいのだが)。もしこれがボードレール「憂愁」からの反照であるとするなら、「黒旗=(精神の)死」という解釈が可能になるわけで、晩年の中也作品に頻出する暗い空のイメージを解く鍵を一つ手に入れたことになる。そのためには『在りし日の歌』の諸作品を中心に精読吟味する必要があるのだが、今回の発表ではその時間的余裕はなかった。次回(第12回)研究会までの課題ということにするが、その前置きとして、若干のメモを以下に記しておくことにする。~
 中原豊の「閉ざされた空」(長野隆編前掲書所収)は、中也の「蛙声」を中心に、晩年の一連の「空」詩篇を解読した論考だが、ここで分析の対象となっている諸詩篇は、私が中原中也の「憂愁」詩篇と名付ける(ことにする)作品とほぼ一致する。以下にその題名と制作年のみを列挙する。「不気味な悲鳴」(昭10)「北の海」(同)「龍巻」(同)「月夜とポプラ」(同)「曇天」(昭11)「暗い公園」(同)「幻影」(同)「言葉なき歌」(同)「夏の夜の博覧会はかなしからずや」(同)「こぞの雪今いずこ」(昭12)「春日狂想」(同)「正午」(同)「蛙声」(同)。~
 これら諸作品には、小野十三郎がいち早く「批評精神」に貫かれた作品、と指摘した(『現代詩手帖』昭28、『現代詩入門』昭30)「北の海」「正午」「曇天」が含まれており、中也の「批評」への急速な接近が窺える。感覚的心情的な「憂鬱の歌」がより意志的精神的な「憂愁の詩」へと移行していく過程である。~
 次回研究会では、これらの作品を中心に、中也詩におけるボードレール的「憂愁」の影を検討する。また、併せて、最晩年に中也が「散文詩四篇」と題して発表した「郵便局」「幻想」「かなしみ」「北沢風景」をも視野に入れて、「憂愁」の向こう側に見え隠れしていた(はずの)散文詩の可能性をも考察する。「憂愁」詩篇から散文詩への行程を高速度で走り抜けようとして果せなかった中也晩年の作品を、ボードレール詩学からの反照としてとらえてみたい。

第10回ボードレール研究会

司会者報告

第10回研究会は2001年7月28日(土)午後2時より、甲南女子大学で行われました。真夏の猛暑の中、また夏季休暇中の工事による騒音の中、快適な会議室を提供して頂いて、充実した研究会となりました。~
 今回は、中堀浩和氏の「ボードレール 魂の原風景」の出版記念合評会を企画したために、研究発表は一つだけになりました。甲南女子大学の大学院生の方達に出席頂いたこともあって、参加者は過去最高の19名となりました。中堀氏の著書の合評については秋吉孝浩氏の報告に譲ることにして、ここでは三宅宣子氏の研究発表について記します。~
 今回の三宅氏の発表は、ボードレールバルザックという19世紀を代表する文学者の内的関連を探るための基礎作業というべき内容で、明確な主張や独自の仮説等の提出はなかったものの、極めて精密で誠実な資料の読解による研究方法が、今後の展開を大いに期待させるものとなっていました。1845年から始まるボードレールバルザック評が時を経てどのように変化していったのか、またしなかったのか、という観点は、バルザックの作品読解への視点としても、ま 鮨ボードレールの文学観の変遷をたどる上でも、興味深い問題をはらんでいることが、よく理解できる内容だったように思います。1850年に死んだバルザックは紛れもなく初期ボードレールと「同時代人」だったわけで、詩人の文学的出発に深く関わった形跡は明らかですが、その内実についてはあまりよく知られてはいません。三宅氏の今後の研究は、ボードレール詩学生成の秘密を探求する試みであり、今後の展開が待たれます。~
 発表後、作者名のみに頼らないインデックス(作品、登場人物への言及やほのめかしなど)は可能か、という質問があり、今後の課題ということで保留されました。また、バルザック「以後」のボードレールの現代性や、晩年の美術批評に見られる「観察者/幻視者」観との比較等をめぐって、示唆に富んだ質疑応答が交わされました。~
 発表後、上記合評会が行なわれ、その後JR芦屋駅前の料理屋で懇親会が開かれました。今後の活動について活発な意見の交換があり、その一つに「10回記念」として、これまでの活動をまとめた小冊子の企画が上がっています。今後具体化する方向で出席者全員の意志が一致していることを報告しておきます。

ボードレールに於けるバルザック - 三宅宣子(英知大学非常勤)

 プレイアード版のボードレール全集の索引によると、ボードレールバルザックについて言及している個所は作品の中では61回、書簡の中では13回もある。これらを見ていくと、ボードレールバルザックに関することなら、文学作品のみならず、私生活やエピソードなどどんなことでも興味を持っていたことが窺がわれる。しかし、ここでは、ボードレールが小説家としてのバルザックをどのように見ていたのかを検討してみることにした。最後に、バルザック自身は小説家にはどのような資質が必要と考えていたのかを探ってみた。~
 バルザックについて初めて言及しているのは、1845年のことであるが、翌年1846年には、バルザックの制作方法の特徴についてはっきりとした考えを示している。ボードレールバルザックがドラマや小説の人物を外界の観察から作り上げていくのではなくて、バルザック自身、バルザックの内奥から引っ張り出すのであると主張する。この考え方は、1845年にすでに示唆されている。1846年には、バルザックの唯一の文学上の欠点とボードレールがみなす思想の統一を乱す文体に関する考え方も示 ている。~
 1848年にはバルザックを観察者と呼んでいるが、この観察者は通りで道行く人や風俗を観察するのではなく、思想と目に見える存在物の生成の法則を等しく知っている博物学者であると説明している。ボードレールバルザックを観察者と呼んだのはここでの一回きりである。そのうえ、1859年にはこのバルザックを観察者とする考えを訂正している。~
 1859年には、バルザックの精神の目には、外界のものは、あるがままに映るのではなくて、デフォルメされた姿で映し出される、と述べている。そして、1846年すでに明らかにしたように、バルザックの作品の人物達は、結局、バルザック自身から、バルザックの内奥から生み出された、とボードレールは述べている。~
 さて、バルザックは1835年、書簡の中で、小説家にとって、外界のものを観察する才能が必要なことを述べている。そして、1836年には自伝的小説フ tァチノ・カーネの中で、勉強の合間に通りに出て、観察する習慣があったことを書いている。しかし、ボードレールバルザックに関する記述の中で気晴らしに通りで人をあるいは風俗を観察するバルザックの姿に関するものは一つもない。ファチノ・カーネに関する記述も全くない。

中堀浩和著「ボードレール 魂の原風景」について

報告・秋吉孝浩(大阪市立大学非常勤)

 本研究会創設時からのメンバーである中堀浩和氏(甲南女子大学)が長年の研究をまとめた著書を刊行されました。これを記念して、研究会当日、参加者全員による合評会を行いました。活発な意見交換がありましたが、ここには中堀氏の発言の要約のみを掲載します。(文責・秋吉)

○本書の成立について

 ボードレールほど多くの切り口から切っていける詩人はいない。30年間様々な視点から見ていきながも、たまたまこうしたまとまりのある書物ができあがっていったのも、やはり、ボードレールだからこそでる。~
 『悪の華』の出版の年に、言語学者ソシュールが生まれているが、 言語への関心は、やはりボードレールから始まっており、日本でもその関心が1970年代に高まり、それが第二部にまとめられた「普遍言語」への関心につながっている。~
 ヴァレリーの言葉にもあるように、ボードレールによってフランス詩が国境を越えたのであり、それは詩の普遍化、つまり「感覚」の重視ということである。

○第一部第一章「詩人とパリ」について

 都市における画一化の問題をボードレールとともに考えること、それは、西洋の存在論の深さを学ぶことである。西洋の存在論においては、それは虚無との闘いであり、自己の実存性であり、こうした点において、ボードレールは、現代においても、これからますます重要な存在となるであろう。現代の病理と言語の問題、この二面こそがボードレールとの対話において、最も学ばなければならない問題である。

サルトルについて

 サルトルは明晰でありながら、ボードレールを論じ損ねている ・サルトル的な一元論的な考え方では、二元的なボードレールは論じられないはずである。たとえば、ボードレールの母子関係ついて、シャルル・モーロンを多く参照しているのもそうした点からでもあるが、おそらくサルトルでは分析できないであろう。

○バターユについて

 従来の存在論にnonを突きつけたバターユは、虚無への恐怖というヨーロッパの特殊性抜きでは考えられない。酒井健の本は、そうした点を指摘しているところで、共感できる。ただ、ボードレールとの関係については、「あとがき」にも書かれているように、今後の「宿題」としたい。

散文詩について

 第二部第四章「韻文詩と散文詩」のような分析を、ランボーも含めて、さらに考えていくことも、今後の「宿題」としたい。

○総括

 死と向き合うことを回避しつつある現代、生と死との緊張の中でいかに強度を生きるかを考え続けたボー ;hレールは、現代につながる問題をすでにすべて考えており、今後ますます重要な存在となるであろう。

第9回ボードレール研究会

司会者報告 - 司会・釣 馨(神戸大学非常勤)

 今回の研究会は3月31日(土)2時半より、近くの夙川沿いでちょうど桜がほころび始めた大手前大学で行われ、参加者は11名。~
 ボードレールドラクロワの絵画の演劇的効果について述べた「人生の重大な局面における身振りの誇張的な真実」という一節。身振りや事物をその誇張の瞬間において「縁で枠取り」「明確化」してとらえる。その際にバルトは麻薬論にも言及しつつこれをヌーメンと名づけ、映画論や写真論にも適用した。この概念がバルトにおいて重要な位置を占めていたのではないかという発表者の指摘だった。
 用語について少し気になった点があった。バルトの映画論のコンテクストで<ヒステリー>は<意味の *病>ではなく、意味の連鎖の遮断として語られていたように思う。ヌーメンはヒステリーから逃れた状態ではなく、まさにヒステリーの絶頂なのではないか。これについてはまたご教示いただきたい。~
 質疑の際に、バルトとボードレールの関係は本質的なものではないという指摘もあったが、B/Bという新たなテクストの出現は今後の興味深い展開を期待させる。バルトを経由することで新たなボードレールが見えてくるだろう。司会者はボードレールの色彩論から映画にたどり着いたが、ボードレールの絵画に関する形式面の洞察がバルトの映画論に影響を与えていることを改めて認識し、非常に勇気づけられた。北村氏とは関心が重なる部分が多いので、今回の発表を聞いて司会者の頭に浮かんだ今後の展開の予想図がどの程度当たっているか、次の発表が早くも楽しみである。「パリ情景」が時間性のない、シンメトリックな布置によって描かれたタブローならば、散文詩はまさに時間性 愚導入し、その運動の極点において不動化させるという手法によって描かれたものではなかったか。と、図式的に言ってみるものの、ヌーメンによって最初に想起したのは「パリ情景」の「見知らぬ女に」である。都市の喧騒の中から突如出現した背の高い黒服の女。それに対する詩人のヒステリックな反応において女のイメージは不動化されている。~
 中畑氏の発表、「より複雑なテュルソスへ」はボードレール散文詩の系譜に属するマラルメの poeme critique についての考察であった。偉大な先行者の系譜に身を置きつつ、その形式を複雑化させることでそこから身を引き剥がそうとするマラルメのアンビヴァレントな身振り。そしてマラルメが散文性よりも重要なものと考えたのが批評性であった。しかし、批評詩は詩と批評の結合として安定した形式を保持するものではなく、その批評性ゆえに詩みずからに刃を向け、詩を破壊する場所にまで行き着く。新しい形式を志向することは、それ自身が旧来の形式よる内容(詩の場合は詩句)についての批評行為になる。その内容がどのような形式に 蟬テいているか問い直されるからだ。制度的に安定してくると、どうしても批評性が弱まる。そのような反復=自己同一性を切断すること。最終的に詩は詩であることを止めなければならない。詩そのものに向けられたテロ行為のあとに、つまり詩がまさに詩であるところの韻律法を破棄したあとに、さらにどのような可能性が残るのか。それが自由詩におけるマラルメの問いであったようだ。~
 またマラルメパナマ運河をめぐるスキャンダルと批評詩をパラレルに置くことで、詩の危機と社会のそれを重ねて志向しようとしている。運河に投資した人々が、金本位制において紙幣が金の預かり証であることを忘れ、裁判の進展や乱高下する数字に一喜一憂している事態をマラルメは嘆く。金の本質的価値、つまり比類のない輝きや希少性を彼らは思い出すべきであると。詩人は言葉によって美や真実という金を積み上げるが、この場合、美は詩に、 K^実は批評に対応すると言う。つまり社会システムを暴露しつつ、美的快楽をも同時に提供できるのが批評詩の理想なのだろう。それは具体的にはパナマ運河についての新聞記事「雑報」から自由詩「金」への移行によって説明される。「雑報」が鉄砲玉や釘が雑多に詰め込まれた爆弾とするなら、自由詩は純粋な閃光だけを放射するための異物を取り除いた花火である。それが社会システムを解体すると言う。しかし、自由詩というあまりに純粋な爆弾は、辛うじて社会システムを明るみに出すにしても、それを解体するなどと楽観的に言えるものだろうか。読者の関心は詩の理想からは程遠く、相変わらずスキャンダラスな記事の断片、つまり鉄砲玉や釘のような異物にあるのではないのか。~
 発表の中で気になったのは、金という原基に基づく経済と、信用にだけ基づく経済が混同されていた点である。マラルメについても、近代の経済社会と詩を完全な対応関係に置くことは無理なように思えたが、それがまさに詩というジャン Q汲フ限界を露呈させているのだろう。金という絶対的価値に固執していては、現在の変動為替相場制に象徴される原基なき関係性のダイナミックな戯れを捉え切れないだろう。また「読者の文学に対する信用が失われる」という興味深い表現が用いられていたが、それには様々なレベルが存在するだろう。文学が他のメディアと分の悪い競合関係に置かれている今日的な問題でもある。文学が自由と純粋さを追求すればするほど、一般読者の信用を失い、一方ではマラルメの名がその晦渋さゆえに流通するというパラドックスもある。セリーヌとケルアックの原稿が数億円で落札されたというニュースもタイミング良く届いていることであるし。

バルトとボードレール - 北村 卓(大阪大学

 今までボードレールは、ロラン・バルトの思想形成にあたって、さほど重要な作家とは見なされてこなかった。しかしながらバルトは、ボードレールのある特定の言葉に対しては、一貫して強迫観念にも近い偏愛を ヘォ続けている。その言葉とは「人生の重大な局面における身振りの誇張的な真実」《la v屍it・emphatique du geste dans les grandes circonstances de la vie》である。今まで明らかにされてこなかったこの言葉の出典は「1855年万国博覧会、美術」 の第三章で、ドラクロワの《十字軍によるコンスタンティノープル攻略》を論じるくだりに見いだすことができる。また、これと類似した表現が、『1846年のサロン』第四章にもすでに見受けられる。ここにおいて注目すべきは、ボードレールドラクロワ絵画の演劇的特質を論じるに当たって、俳優の「崇高な身振り」に焦点を据えている点である。~
 さて、エリック・マルティーの編集による『バルト全集』(全三巻)巻末索引の《Baudelaire》の項目を調べると、このボードレールの言葉は、1944年7月掲載の「『異邦人』の文体に関する考察」からバルトの死の2ヶ月前、1980年1月刊行の『明るい部屋』に至るまで計9回も引用されていることが分かる。しかし、引用箇所前後のコンテクストは必ずしも同一ではない。微妙に変化を遂げてゆく。バルトのとりわけ初期のテクストにおいて、ボードレールのこの言葉は、 ル新たなエクリチュールを実践するカミュや実存的な選択を拒否したとしてボードレールを痛烈に批判するサルトルらと対置され、むしろ否定的に捉えられているかの印象を与える。しかしながら、その言葉自体が否定されているわけではない。~
 この言葉が、初めて明確な形で肯定的に捉えられるのは、1957年に刊行された『神話作用』である。その冒頭に置かれた「レッスルする世界」(初出は1952年10月)のエピグラフとして引用されている。この論考は、プロレスリングの世界をまさにボードレールの言葉を鍵として読み解いたものであって、その背後にあるのは、古代演劇である。すなわち、レスラーの動きは、スナップショットのように瞬間瞬間の誇張的な身振りに切り取られ、「身振りは余分な意味を一切断ち切り、観客に対して儀式的に純粋で充実した意味作用を提示する」ことになるのである。~
 さらにバルトは、「ボードレールの劇作」(1954)において、未完成に終わったボードレールの劇作三篇を採り上げ、「演劇性」が、劇作草案の中ではきわめて希薄であるのに対し、演劇以外のジャンルでは豊かに見いだせるとして、第一に『人工天国』、第二に詩、そして第三に rヘ絵画に関する描写を挙げる。そして、ボードレールの詩の本質を「演劇性」として捉え、そこにハシッシュの陶酔と同質の「誇張」的な場を見て取る。~
 また1964年に発表された「『百科全書』の図板」においては、その図像群が詩的であることを二つの側面から、いずれもボードレールを引き合いに出して論じている。第一に、「縮小化」と「明確化」という語によって、ハシッシュの効果を要約しつつ、極小の物も拡大されて提示されるという「知覚のレベルの移動」を指摘する。そして第二の側面とされているのは、「ヌーメン」とバルトが名付けるところの「不動性」である。~
 バルトは、1970年7月『カイエ・デュ・シネマ』誌に掲載されたエイゼンシュテインに関する論考「第三の意味」において、「自明の意味」le sens obvieの例として、『戦艦ポチョムキン』の一枚のスチール写真を採り上げ、ボードレールの言葉を引用している。しかしながら、ここで「…身振りの誇張的な真実」が「鈍い意味」le sens obtusと対立するものだと即断してはならない。「 ㌣ーメン」によって「枠をはめ」られ、「不動化」され、「誇張」された身振りこそが、「鈍い意味」の現出する前提条件なのである。~
 さて最後に、『彼自身によるロラン・バルト』(1975)のまさに「ヌーメン」numenと題された項を以下に引用したい。~
 《何度も引用された(とりわけプロレスを論じた際に)ボードレールの言葉に対する偏愛:「人生の重大な局面における身振りの誇張的な真実」。彼は、この過剰なポーズをヌーメン(人間の運命を宣告する神々の無言の身振り)と呼んだ。ヌーメンとは、凝固し、永遠化され、罠に捕らえられたヒステリーである。というのも、ヒステリーは、長い凝視を通して、ついに鎖に繋がれた、不動の状態で捉えられるからである。そこからポーズ(縁取りされたものに限る)、高貴な絵画、悲壮なタブロー、天に向けられた眼差し、等々に対する私の関心が生まれた。》~
 先の「『百科全書』の図板」と比較すれば明らかなように、ここで「ヌーメンと呼んだ」「彼」とは、しばしば誤読されているようにボードレールではなく、実際には「『百科全書』の ・}板」におけるバルトなのである。そして最後に出てくる「私」もまたバルトである。すなわち、ここに至ってバルトは「ヌーメン」を通してボードレールとの「間テクスト性」を実現している。~
 バルト/ボードレールは、身振りや事物をその誇張に瞬間において「枠で縁取り」、「明確化」して捉えることによって、通常の意味作用を停止させ、身振りや事物がもつ本来の輝きを取り戻そうとする。もちろん「枠で縁取る」《encadrer》ことは、写真のフレーム操作にも適用され得る。バルト最晩年の写真論『明るい部屋』もまた、こうした試みの射程内にあることは自ずと明らかであろう。

より複雑なテュルソスへ ―マラルメの「批評詩」: Faits-diversからOrへ - 中畑貴之(神戸大学非常勤講師)

 詩人の死の前年に出版された『ディヴァガシオン』(1897)は、その巻末「書誌」のなかで、新しい「現代的な形式」の誕生を告げている。フランスの〈現代〉詩人たちによる長い探求の成果、マラルメはそれに po塾e critique の名を与えた。『ディヴァガシオン』の諸テクスト 奄ヘ、ボードレールとの距離をたえず測りながら、意識的に配置されている。先達の影響濃い初期散文詩を含む「逸話、あるいは詩篇」グループをそこから削除しないが、はっきり区別はするという身振りをまず戦略的に示しつつ、散文詩からpo塾e critiqueへ、発展的にかつ多様な軌跡を描きだすように、すべてをほとんど同時にマラルメは射かけてくる。散文詩というテュルソスがより複雑になり、po塾eが en proseよりもうまく結びつく語として要請したcritiqueの意味をわずかでも明らかにしたい。~
 パナマ事件を扱った「三面記事」Faits-diversを書きかえた「金」Orをはじめ、さまざまな出来事を通して詩人と社会の関係にまなざしを投げかける po塾e critique は、確かに「批評による詩」の試みである。とはいえ、詩と批評の結合あるいは「結婚」にマラルメの創意を限定すべきではない。『悪の華』の詩人においてすでに、詩と批評は不可分なものと意識され、それが彼のうちに「小散文詩」を懐胎させたことが指摘されている。また、「批評と詩の結婚」の必要性を説くモンテギュの論 メ文「フランスの新しい文学」(1867) を読んだ若いマラルメはその感動を友人に書き送っている。ボードレールにとって、批評とは詩人による明確な「認識」であった。マラルメにおいては、その「認識」が「破壊」と表裏をなしている。このことを強調しておこう。~
 自由詩を中心とする新しい詩の事件を目撃したマラルメは、1890年代、幾度も詩句と散文について論じているが、そのなかでくり返し、「散文などというものはない」に端的に要約される独自な見解を述べた。「散文で書かれた」(en prose)という形容はもはや意味を持ちえない。さて、詩の探求は自由詩の発見によって終わる、と同時に詩句そのものが「危機」に直面する。あらゆるfondsが動揺し、その無根拠性が噴出しはじめた世紀末、文学も例外ではなかった。しかし、詩とは何かを問うべきその場所で、自由詩は韻律法の破 戛を叫んだだけであった。アナーキストの爆弾と重ね合わせ、マラルメはそれを「テロ行為」と呼ぶ。危機を照らし出すべきその光はともに短かすぎ、決定的な無理解をひき起したばかりか、危機そのものを覆い隠してしまう。~
 ところで、「三面記事」を書く詩人の関心=利益は、スキャンダルの結末=判決にではなく、パナマの崩壊 (effondrement) を読み解くことにあった。or(金=光輝) を蓄積する金庫の底が割れたという事態はいったい何を意味するのか。マラルメは信用によって成立つ経済の魔術を暴き、数字の欠陥を指摘する。翻って、真実や美といった言葉を発する詩人にこそ、orを積みあげる能力が生じるという。詩句が言語の欠陥を補う。真実と美がそれぞれ批評と詩を仄めかしているが、このとき文学への信用はまだ少しも &揺らいでない。政治・文学的「テロ」ののち、危機の時代の出来事を批評する詩は、自らの創造行為それ自体をも意識せざるを得なくなる。詩であるためには、ただ数を数えるのではなく、「思考の直接的なしかじかのリズム」を示す必要がある。それが断章間の空白、つまり「読みの間取り」を形づくる。「三面記事」から「金」へ、その実践によって、文学のメカニズムを分解してしまう臨界まで詩の根拠を問いつめたpo塾e critiqueは、詩が詩であることの神秘を輝かせている。爆弾というよりはむしろ、花火あるいは縁日の灯明であり、祝祭を想起させるその光は読者に文学の快楽を与えるに違いない。