第11回ボードレール研究会

司会者報告 - 北村 卓(大阪大学

 第11回ボードレール研究会は、10月13日(土)午後2時半より関西大学尚文館にて開催され、2件の発表がありました。参加者は12名。~
 最初の発表は、中畑寛之氏の「マラルメとF・フェネオン――アナーキズムをめぐって」。19世紀末に頻発したアナーキストによる爆弾テロ事件をめぐり、マラルメが何を考えていたのか、という問題意識を出発点に、とりわけ、アナーキストの陣営に属し、文芸・芸術批評も書いたジャーナリスト、フェリックス・フェネオンとマラルメの交流に焦点を据え、アナーキズムに関する両者の言説、さらには当時の文学的場におけるアナーキズムの問題を1891年から95年まで詳細にたどり、そこからマラルメ詩学的・政治的立場を浮かび上がらせようとする意欲的な発表でした。~
 質疑応答では、当時の政治・社会さらには文化的な状況においてアナーキズムがいかなる役割を果たし、またいかに捉えられていたのかという説明がやや不足しているのではないか。さらにはマラルメ純粋詩・批評詩の問題も含め、マラルメの作品そのものとどのよう ケネ関わりを持つのか、等々の有意義な質問やコメントが提出されました。~
 アナーキズムの立場にも、またそれに反対する立場にも身を置かないマラルメの一見したところ優柔不断ともとれる態度が、実は彼の詩学的な立場と密接に関わっているとの中畑氏の指摘は、マラルメ晩年の思想を明かす一つの重要な鍵ともなり得るでしょう。今回の発表の目的からして、資料として文学作品以外のテクストに比重がかかるのは当然ではありますが、さらに詩的作品をも視野に入れた総合的なマラルメ研究に結実することを期待したいと思います。~
 二つ目の発表は、山田兼士氏による「ボードレール中原中也」。従来、中原中也といえば、ランボーヴェルレーヌとの関係が前面に押し出され、ボードレールの影は薄かったのですが、山田氏は、中也がその晩年、きわめて意識的にボードレールに深く接して自らの詩的営為に取り込むとともに、『悪の華』を全訳する企図すら持っていたのではないか、という実に刺激的な仮説を提示されました。~
 昭和42年に発見された中也の翻訳ノートには、『悪の華』の二つの作品(「序詞」「祝詞」)が翻訳され、ま アスそのノートには1から8までの通し番号がついているとの指摘の後、山田氏はさらに、角川版『新編 中原中也全集』第3巻に収められた宇佐美斉氏の解題、また日本で初めて『悪の華』を全訳した矢野文夫との交遊など当時の中也を取り巻く状況も踏まえた上で、中也における『悪の華』全訳の意図の可能性に言及されました。その根拠の一つとして、中也晩年の作品群とボードレールの作品との親密なテーマの繋がりを挙げ、中也の「曇天」とボードレールの「憂愁」を例に取り、詳細かつ説得的に論じられました。~
 中也における『悪の華』全訳の可能性は、ボードレーリアンにとってのみならず、中也研究においてもきわめて魅力的な仮説であるわけですが、惜しむらくは時間の制約もあって、今回の発表ではその一端をうかがうにとどまりました。今後、中也晩年の作品群の徹底的な分析、さらには中也以前の日本におけるボードレール翻訳史の検討なども含めて、従来の定説を覆す画期的な研究となることを願っています。~
 なお、研究会の後、関大前の「ひょうたん」に場を移し、酒食をともにしながら、活発な意見交換を行いました。

マラルメとF・フェネオン ―アナーキズムをめぐって - 中畑 寛之(大阪産業大学非常勤講師)

 世紀末、とりわけ l'俊e des attentats と呼ばれる1892-94年、フランスにおいてアナーキズムが多くの芸術家や文学者の共感を獲得していく。なかでも、伝統的な韻律法を拘束と感じ、自由詩を実践する象徴派の若い詩人たちは、アナーキストの直接行動に煽られた激しい熱狂に浸っていた。マラルメがローマ街の自宅で催していた火曜会も必然的にその色に染まることになる。さて、自由詩が不安定な社会の「直接的な反映」 蘄ナあるならば、かつてコミューンの動乱について「政治が〈文学〉なしでことを済まし、銃撃でもって片を付けようとしているのは悪くない」と語った詩人は、今度は文学に侵入してきた政治をどのように見ていたのか? ここではフェリックス・フェネオン(1861-1944)を批評的な鏡として、マラルメアナーキズムの問題を再検討する。~
 年若い友人かつ卓越した批評家フェネオンがアナーキストとして逮捕されたとき、マラルメは「文学以上に効果的な武器を使うことができるとは思わない」と語った。おそらくこの発言が詩人の態度を完璧に表現している。J・グラーヴの La R思olt・誌94年の定期購読者リスト。スープ講演会を主催するL=E・ルーセへの手紙と10フランの寄付。H・ド・レニエの日記。ローマ街の師をモデルにしたモークレールの小説『死者たちの太陽』(1898) など、マラルメアナーキズムを結びつけ得る証拠をいく nツか挙げることができる。しかしながら、Uri Eisenzweig も指摘するように、その作品や発言のなかにアナーキズムはつねに「不在」である。92年 La Plume 誌、また93年 L'Ermitage 誌のアンケートへの回答はアナーキズムを含むさまざまな社会理論への詩人の無関心を確認させる。レニエが書きとめた「アナーキストである権利をもつ者はひとりしかいない、この私、詩人である」といった言葉も火曜会で披瀝されたいくつもの意見のひとつでしかないだろう。それは新聞が報じたフェネオンの声を反響させているように思う。マラルメが関心を寄せるのはアナーキストが社会に対して突きつけた「爆弾」だけである。思想ではなく、爆弾という物質がうみ出した効果への興味。というのも、その光がモ――爆弾に詰め込まれた鉄砲玉や釘ではなく――政治や経済といった社会の制度がフィクションでしかないことをわずかに照らしだしていたからである。爆弾、そこに詩人は詩、あるいは書物とのアナロジーを見出している。~
 アナーキズムの激しい炎が短く消え去った 蘄フちに始まるマラルメの「行動」、すなわち95年2月から11月にかけて La Revue blanche 誌に連載される「ある主題による変奏」シリーズ10篇および『ディヴァガシオン』という書物は、真に効果的な爆弾として、世界の虚構性を暴きだすものである。しかもそれは「その意図に沿って自らを限りなく変化させていく」ことができる。フェネオンはこれらのテクストを誰よりも先に読んだ。そしてこの批評家の眼と手の助けを借りて、つまりその綿密な校正を経て、po塾e critique は社会に仕掛けられていったのである。『骰子一擲』の校正刷を見せたヴァレリーとはまた別の意味で、マラルメはフェネオンを精神的な息子、あるいはもうひとりの自分とさえ見ていたのではないか。30人裁判のときのマラルメの証言を書き写してくれるよう、晩年 (1941)、フェネオンはナタンソンに頼んでいる。自己のことを決して語らなかった ヌcelui qui silenceネ の心にローマ街の師の言葉はどのように響いたのであろう。

ボードレール中原中也 - 山田兼士(大阪芸術大学

 中原中也(明40ー昭12)はしばしば「空の詩人」と呼ばれるほど、空をよく描いた詩人である。夙に昭和37年、菅谷規矩雄は、中也の初期作品「臨終」に見られる「空、地上の事象、空しい私、という三者の存在(あるいは非存在)」に注目し、中也詩における「空」の表象を鮮やかに解析してみせた(「空のむこうがわ」長野隆編『中原中也 魂とリズム』有精堂、所収)。だが、第一詩集『山羊の歌』では未だ比較的穏やかだった空のイメージが、第二詩集『在りし日の歌』では、不幸、不吉な事象に満ちていくことになる。詩「含羞」(昭11)における「空は死児等の亡霊にみち」などはその典型といえよう。~
 中也が生前に翻訳発表した唯一のボードレール詩篇「饒舌 Causerie」は、「空=君」と「地上の廃虚=私」が烈しく対照を成す点において極めてボードレール的であるとともに、「空と地上と私」のトライアングルと相似形を成す点において極めて中也的な作品でもある。これが翻訳された昭和9年前後から、中也の興味は加速度的にボードレールに向かっていったと思われる。リヴィエールによる「ボードレール」の翻訳(昭8)、モークレールの「ボードレールの天才」の部分訳(昭10)などはその傍証になるだろう。昭和42年に発見されて以来注目されてきたボードレール訳詩ノート(『悪の華』の冒頭2篇で中絶)や『新編中原中也全集』の解題、「空」を描いた晩年の一連の作品等を手掛かりに、晩年の中也が『悪の華』の全訳を意図していたとの仮説を立て、翻って晩年の作品群をボードレールという鏡に照らして読み直してみよう、というのが本研究のねらいである。~
 詩「曇天」(昭11)はボードレールの「憂愁 Spleen」(同題の4篇中4番目の作品)と非常に似た構成と主題をもっている。重苦しい空と憂鬱な私、という構図がまず目に付くし、曇り空の情景と「黒旗」の象徴は両者を貫くライトモチーフといえる。「曇天」の「黒旗」についてはこれまで様々な解釈がされてきたが、なぜかこれを「死の象徴」とする説はなかったように思う(私の見落としであれば指摘して頂きたいのだが)。もしこれがボードレール「憂愁」からの反照であるとするなら、「黒旗=(精神の)死」という解釈が可能になるわけで、晩年の中也作品に頻出する暗い空のイメージを解く鍵を一つ手に入れたことになる。そのためには『在りし日の歌』の諸作品を中心に精読吟味する必要があるのだが、今回の発表ではその時間的余裕はなかった。次回(第12回)研究会までの課題ということにするが、その前置きとして、若干のメモを以下に記しておくことにする。~
 中原豊の「閉ざされた空」(長野隆編前掲書所収)は、中也の「蛙声」を中心に、晩年の一連の「空」詩篇を解読した論考だが、ここで分析の対象となっている諸詩篇は、私が中原中也の「憂愁」詩篇と名付ける(ことにする)作品とほぼ一致する。以下にその題名と制作年のみを列挙する。「不気味な悲鳴」(昭10)「北の海」(同)「龍巻」(同)「月夜とポプラ」(同)「曇天」(昭11)「暗い公園」(同)「幻影」(同)「言葉なき歌」(同)「夏の夜の博覧会はかなしからずや」(同)「こぞの雪今いずこ」(昭12)「春日狂想」(同)「正午」(同)「蛙声」(同)。~
 これら諸作品には、小野十三郎がいち早く「批評精神」に貫かれた作品、と指摘した(『現代詩手帖』昭28、『現代詩入門』昭30)「北の海」「正午」「曇天」が含まれており、中也の「批評」への急速な接近が窺える。感覚的心情的な「憂鬱の歌」がより意志的精神的な「憂愁の詩」へと移行していく過程である。~
 次回研究会では、これらの作品を中心に、中也詩におけるボードレール的「憂愁」の影を検討する。また、併せて、最晩年に中也が「散文詩四篇」と題して発表した「郵便局」「幻想」「かなしみ」「北沢風景」をも視野に入れて、「憂愁」の向こう側に見え隠れしていた(はずの)散文詩の可能性をも考察する。「憂愁」詩篇から散文詩への行程を高速度で走り抜けようとして果せなかった中也晩年の作品を、ボードレール詩学からの反照としてとらえてみたい。