第31回ボードレール研究会

司会者報告 廣田大地(大谷大学任期制助教

第31回ボードレール研究会は、9月4日(火)、最近恒例となっている大阪市南森町の大阪日仏センター=アリアンス・フランセーズにおいて開催されました。参加者は11名。発表者の佐々木さんに加えて、名古屋からはもう御一方、ネットを通してこの会のことを知った非大学関係者の方に参加いただきました。ボードレール研究会では、関西以外の地域にお住まいの方々、大学に所属するフランス文学研究者以外の方々にも広く参加していただけることを願っていますので、ご関心をお持ちの皆さまは今後の開催時にはどうぞお越しください。

今回の発表者は、名古屋大学博士課程の佐々木稔さんと、大阪大学博士課程の太田晋介さん。太田さんは大阪大学フランス文学研究室の後輩ということで、今回、僭越ながら私、廣田がお二人の司会を務めさせていただきました。お二人とも、現在フランスへの留学を準備中とのことで、文学研究に対する新鮮な情熱がひしひしと伝わってくるような発表でした。

まずはボードレールを専門としている佐々木さんから発表が行われました。近年、かつての研究動向の反動なのか、散文詩などの後期ボードレール詩学に注目が集まっていた中、1848年以前の政治との関わりを強く意識して執筆活動を行っていたボードレールに注目した研究に取り組んでいる佐々木さん。レアリスムとの関わりに関しては近年、海老根龍介氏による反進歩主義としてのボードレールについての優れた論考がありますが、今回の佐々木さんの発表は、「ボエーム」というまた異なった切り口から、「脱・政治化」する以前のボードレール像を浮かび上がらせようとする意欲的な試みであったように思われます。質疑応答の中では、この領域に関する先行研究である横張誠氏による論考(「ボエーム/ルンペン・プロレタリアート/遊歩者」『ユリイカ』1993年11月ボードレール特集号所収)を踏まえながらも、どのようにして新機軸を提示するのかといった質問や、社会学的な観点からの研究だけでなく、そこから詩作品の分析にも結び付けて行ってほしいとの助言など、ボードレール研究の専門家としての発表者の今後を期待する参加者からは辛口ながらも好意的な意見が相次ぎました。

二人目の発表者である太田晋介さんは、20世紀中盤のフランス詩を代表する詩人の一人、フランシス・ポンジュを対象として研究を続けられています。今回は、年代的に『物の味方』発表の1942年の前後に位置する詩篇「蝸牛」(1936年)と「蜘蛛」(1950年)の2作品の分析を中心に、閉鎖的な作品構造から、読書行為によってその度ごとに生起するものとしての詩のあり方へと、ポンジュの創作観が大きく変遷していることを論じられました。質疑応答では、サルトルロブ=グリエによるポンジュ理解の誤りとその弊害についての確認や、「運動」mouvementによる「記念碑」monumentという意のポンジュによる造語movimentについての補足など、発表内容の射程の広さに応じた多様な意見が提示されました。準備の行きとどいた明快かつ内容豊かな発表という印象を得ましたが、あえて一つ司会担当者から指摘をするならば、「作者の栄光」「作品の不滅性」という根源的ではありつつも曖昧な抽象的概念を発表全体の大枠とする上で、フランス詩の歴史の中で「栄光」や「不滅性」がどのように認識されてきたのかを背景として踏まえておくことで、より広がりのある議論が展開できるのではないかと思われました。

お二人とも、それぞれの研究対象を論じる上で、年代による作風の変化と、作家と同時代との関わりという縦糸と横糸の双方を意識した堅実な研究方針をとっていることに好感がもてる発表でした。これからの研究の進展を期待してやまないのは当日研究会に参加した全員に共通の思いでしょう。

発表者報告 佐々木稔(名古屋大学博士後期課程)

本発表では、ミュルジェールの『ボエーム生活情景』の序文に依拠しながら、ボードレールを放浪芸術家としてのボエームとして位置づけ、それによって、1845年から1850年代前半に至るボードレールの批評意識を同時代の文学者の問題意識に漸近させることを試みた。

このような作業のはじめとして、ミュルジェールの「序文」に込められた戦略を読み取り、これが当時の芸術家の置かれた状況に対応するものであったことを論じた。まず、ミュルジェールは、ボエームという語にまつわる都市の下層民というイメージを払拭した上で、そこから区別される芸術家ボエームについて、これをさらに三つにわけている。その三類型が、「無名のボエーム」、「アマチュア」、「真のボエーム」である。ミュルジェールは、ボエームにまつわるイメージをこのように整理し、自身とその仲間を、「自身の作品によって名を知られる、芸術家の名に値する芸術家」という「真のボエーム」に位置づける。

序文に示されたミュルジェールの戦略が一方(ひとかた)ならぬ意味を持つのは、それが当時の若い芸術家世代、つまり、ゴーチエら、いわゆるロマン主義第二世代に続く新しい世代の不安定な自己意識に対応するものであったからにほかならない。それは、ブルジョワ的価値観が支配的になってゆく中で、いかにして芸術家がその自律的な立場を確保するかという問題であった。1845年および46年に発表されたボードレールの二つのサロン、および「天才を有する人はいかにして借金を払うか」(1845)、「若い文学者たちへの忠告」(1846)という二つの文芸記事は、前二者がこの問題の理念的な側面を、後二者がその現実的な側面を扱ったものとして読まれるべきものである。サロン評がブルジョワへ、文芸記事が文学者たちへと向けられているということは、ブルジョワと文学者たちの間に共通の価値基準を打ち建てようとする批評家ボードレールの意図を反映するものであると言える。その上で、ブルジョワを中心とした、同時代の公衆に訴えかけ得る「新しい伝統」を作り出せるかどうか、そこにこそボードレール世代の芸術家たちにとっての真の賭け金があったと言える。

このような1840年代の試みを検討することは、つまるところ1848年、そして1851年が、ボードレールにとってどのような意味を持ったのかという問題に結びつくものと、発表者は考えている。そのためにも、ボードレールにとってのボエーム、および青年時代(Jeunesse)の問題を、視点や枠組みなどの設定も含めて、さらに精密に展開する必要性を、発表後の議論の中で痛感した。今後は、ボエームの作品群や問題をさらに広い視野で観察しつつ、それが1845年から50年代初頭のボードレールにどのような影響を投げかけているかということを、追究していきたい。

発表者報告 太田晋介(大阪大学博士後期課程)

  • 詩と行為―ポンジュにおける« gloire »と« acte »の問題について―

本発表で発表者は、フランシス・ポンジュにおける「栄光」« gloire »というモチーフをめぐる詩人の葛藤とその解決について議論することを試み、その手続きとして以下の論証を行った。
はじめに議論の土台として、ポンジュが幼少の頃から石や記念碑という永続する存在に対して憧憬を抱いていたこと、および詩人は、自身の歌う対象を作品として永遠化することで作者としての「不滅性」「栄光」の獲得を試みた、という見解を示した。詩集『物の味方』において歌われる軟体動物とその殻の寓意の中にもそのことは確認される。

次に、そのような「栄光」を希求するポンジュの詩学は方法的困難を有していることを「蝸牛」と題された詩篇の分析を通して明らかにした。「蝸牛」詩篇において、蝸牛本体とその「殻」の関係性は、芸術家と作品のアナロジーをもって捉えることができる。しかし、「蝸牛」詩篇においては、蝸牛が地面を這う歩みぶりと唾の痕跡の美しさが「殻」以上に称えられることとなる。この2つの美の対置は、栄光を希求する芸術家は自己の本来性が喪われようとも永続する「殻=作品」を選択するべきか、それとも、より自己の存在に切実に結びついた「歩みとその痕跡=表現・行為」が持つ束の間の美を選択するべきかという問題として解釈される。言い換えれば、芸術作品における「作者の死、非人称化」の是非が「栄光」のテーマをめぐる詩人にとっての問題であった。加えて、この蝸牛が地面に残す痕跡の美はポンジュ詩学において特権的な意味を持つ« acte »という詩的概念と重なりあう。「行為」と訳されるこの語は多義的であるが、栄光をめぐる本発表の議論においては、この語が主体の「行為」を表すと同時に、その結果として産出される「事績」の意味を持つものとしてポンジュが捉えていることが重要である。

以上の議論を踏まえた上で、最後に「蜘蛛」詩篇の分析を通して、詩人がどのように上述の葛藤を乗り越え、詩的栄光の獲得を果たしたのかを検討した。結論から述べると、「読者」という要素を顧慮することでポンジュは問題の調停を図った。「蜘蛛」詩篇においては、複雑に込み入った蜘蛛の巣、迷宮のようなエクリチュールが採用されている。そして、この難解かつ多様な読解を許容するテクストの解釈を試みる読者は、作者の意図を措定することでそれを行う。ゆえに、読書とは、作者が確かにそこにいた、という事実が読者によって確認される一種の存在証明なのである。つまり、読書という行為を通して、« propos »言葉、意図としてテクストの中に潜む作者は読者の内部で蘇生、あるいは活性化« en acte »するのだ。そして、読者という他者とテクストの間に成立する力動的な読書空間の中に、ポンジュは詩人としての栄光を見出したのだった。

今回の発表では、テクストの寓意を読み解くにあたり、ともすれば恣意的な印象を与えてしまった憾みがある。質疑応答の場で賜った質問・指摘を検討しつつ、草稿や書簡などの資料を参照することで、本発表で示した作品の解釈により論拠と説得性を持たせたることを発表者のこれからの課題としたい。